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安全衛生対策の合理的な実行可能性
ロバート・マクマード

資料出所:The RoSPA Occupational Safety and Health Journal
「OS&H」|2003年9月号 p.12-16
(仮訳 国際安全衛生センター)


 英国安全衛生庁(HSE)は、法令の施行について責任を有している。このため、HSEは事業主と義務を有する責任者(以下「事業者」という)が、労働安全衛生に関する法令を遵守しているかどうかを審査する監督官にたいしての指針を示している。
 このような指針は、労働者やその他の人びとの健康と安全を「合理的に実行可能な範囲内(so far as is reasonably practicable:"SFAIRP")」で守り、また、既存あるいは提案された方法が、リスクを「合理的に実行可能な最小限度内(so low as is reasonably practicable:"ALARP")」まで低減および管理するのに十分かどうかについて必要に応じて判断し、遵守することを義務づけられている事業者にとっても参考となるものである。
 もちろん、事業者が法律を遵守しているかどうかについて最終的に判断するのは裁判所であることはいうまでもない。 しかし、事業者としては、裁判所だけでなく、HSEからも法令違反がないことを認めてもらう必要がある。 そして、HSEは、法律や関連判例法と矛盾することのない、事業者に対し法律が要求するものについての首尾一貫した固有の見解をもつ必要がある。
 以下に、事業者に対して「『合理的に実行可能な最小限度内("ALARP")』までリスクを低減することについて、法律がどこまで要求しているか」に関するHSEの見解をわかりやすく説明する。
 なお、本書は、審判の際に発生しうるあらゆる状況を網羅するものではなく、また特定の状況下で専門的な判断を下さなければならない監督官個人の基本的な役割を侵害するものでもない。本書は、HSE職員による意思決定が一貫性と透明性を確保できることを期待し、HSEの法的解釈を明確化する目的で作成されたものである。本書によりHSEの考えの一端を知ることとなった『労働安全衛生(OSH)』の読者の皆さんは、自らの組織のなかで一層権威をもって発言することが出来るようになることを期待している。


「合理的に実行可能な範囲内("SFAIRP")」と「合理的に実行可能な最小限度内("ALARP")」について

 法律が、責任者に対して何を要求しているかを判断するときには、HSEは、「合理的に実行可能な範囲内で安全衛生を確保する義務」と「合理的に実行可能な最小限度内までリスクを低減する義務」の両者について検討する必要があると考えている。
 しかし、「合理的に実行可能な範囲内」と「合理的に実行可能な最小限度内」については、いずれかを実施すれば良いという意味ではない。なぜなら、法律上の手続きを行う場合には、関連する法律に引用されている特定の用語を使用しなければならないからである。
 そのため、事業者にとっての重要な課題は、「合理的に実行可能な範囲内の義務が遂行されているか」、あるいは「合理的に実行可能な最小限度内要件が守られているか」という判断が、世間一般に通用する常識的な考え方によってなされているかどうかということである。


 HSEは、事業者に対して、リスクを「合理的に実行可能な最小限度内」に低減するということについて、何を期待するか。

 裁判所は、「合理的に実行可能な最小限度内」までリスクを低減する意味合いについて、特に示していない。これに関する重要な判例に、エドワーズ対イギリス石炭庁のケースがある。鉱山の安全地帯(mine secure)に屋根と坑道に側壁(side of road)を設置することを「合理的に実行可能な範囲内」と認めるか否か、控訴院は審議した。そして控訴院が出した判決は、以下のとおりだった。
「いかなるケースにおいても、リスクを除去するために必要な手段とリスクそのものを比較検討する必要がある。リスクが重大であればあるほど、疑いなく、コストという要素の重要度は低くなる」そして、「『合理的に実行可能』という言い回しは、『物理的に可能』という言い方よりも狭義で、実証するための比較検討が必要な感じがする。あたかも被告である鉱山の所有者が、天秤の片方の皿に相当量のリスクを載せ、そして、もう一方の皿にリスク除去のための手段を講じることによって発生する金銭、時間、労力等のあらゆる経費を載せて比較検討しているようなものである。その結果、天秤がバランスせず、不均衡が生じ、わずかなリスクに対して経費が莫大なことが証明され、被告側の責任を問えなくなるようなことも有り得る感じがする」裁判所は判決に際し、特定の事例に関係するあらゆる状況について検討する。


リスクが『合理的に実行可能な最小限度内』まで低減されたことの決定

 「リスクが『合理的に実行可能な最小限度内』まで低減されたかどうか」を認めるためには、除去すべきリスクの重大性と、リスク除去のための手段による金銭、時間、労力に要する経費についてアセスメントを行った上で、両者を比較検討しなければならない。
 このプロセスには、危険の性質、リスクの範囲、そして採用するリスク管理方法に依存する、段階的な精査が必要かもしれない。アプローチの仕方がシステマティックになればなるほど、取締官(regulator)やほかの利害関係者にも、より厳密で透明性の高いアセスメントが要求されることになる。しかし、そのような厳密性が正当化されていない場合、責任者と取締官に、過度の負担を負わせるべきではない。考察するリスクの初期レベルが重大であればあるほど、HSEは、そうしたリスクが「合理的に実行可能な最小限度内」まで低減されていることを示す根拠を、いっそう厳しく要求するようになる。
 それゆえ、使用されるリスク管理方法の点からだけでなく、リスクアセスメントの厳密性の点でも、大げさに構えすぎる、例えば鶏を捌くに牛刀を用いるような必要はないのである。とはいえ、厳密なリスクアセスメントが必要かどうか判断する際には、リスクの性質と潜在的な重大性をしっかり確認する必要がある。想定される最悪のケースが、「オフィスで働く人が紙切れで指先を切る」程度のとるに足らないリスクであれば、リスクアセスメントにそれほど力を入れる必要はない。しかし、「エイズ研究を行う科学者が、実験室内で指に切り傷を負う」ようなリスクの査定をしているのであれば、完璧かつ効率的なリスクアセスメントの実施を確保する必要がある。


リスク

 リスクアセスメントは、当該の法律に関係する内容に限定されている。安全衛生上のリスクを扱っているのは、1974年労働安全衛生法、そして1999年職場安全衛生管理規則などの、労働安全衛生法に付随する法令である。1974年労働安全衛生法も1999年職場安全衛生管理規則も、従業員のリスクだけでなく、その他の労働者、そして作業によって影響を被る可能性がある労働者以外の人びとのリスクまで包含していることを、事業者のみならずHSEの監督官も肝に銘じておくべきである。
 HSEが関係する法律のなかでその他のリスクを扱っているものに、1999年大規模災害管理規則(COMAH:Control of Major Accident Hazards Regulations)がある。この規則は環境上のリスクも対象にしている。環境保護に関する要件が、安全衛生上のリスクを管理するため、責任者に与えられた選択の範囲を狭める可能性がある。
 リスクとは、責任者が企てた行為により、管理あるいは影響の重大性を和らげることができるような類のものでなければならない。なかには外部の出来事や環境によって発生し、責任者がコントロールしきれないが、その影響の重大性を和らげられるような種類のリスクもある。こうしたリスクもアセスメントに加えるべきである。
 いかなる職場にも、責任者が取り組むべき、数多くのリスクが存在する。しかし、そうしたリスクすべてを正式なかたちで宣言するように要求することは、あまりにも無益で大きな負担を、責任者に強いることになる。彼らに意味のない重荷を負わせることがないよう、HSEは合理的に予見できる出来事や行動を考慮した上で、危害を招くことを合理的に予見できるような危険以外は注意せずともよいとの判断を下している。
 リスクは、責任者の下で働く従業員だけでなく、その他の労働者、そして爆発事故が発生した時のように、事故による被害を受ける地元住民を含む、一般市民にも影響を及ぼす。
 リスクを査定する際、仮説上の人物を設定して実行するべきである。仮説上の人物とは、例えば、「最も危険に暴露されている人」、「特定の場所に住んでいる人」、「ある生活パターンを送る人」などが考えられる。「ある生活パターンを送る人」の例としては、「健康体で、危険と背中合わせできっかり週40時間働く人」とか、「重大な危険から至近距離に住み、子供が一人いて、ほとんど家ですごす人」などである。特定の危険がもたらす重大なリスクを網羅していることを確認したら、危険に暴露されているさまざまな人口構成をすべて包含できるように、「健康体の人」や「若者」などのように、仮説上の人物を何人も想定する必要がある。
 現実にリスクに暴露されている人びとに、リスクアセスメントを媒介とした管理手段を、いつ実際に適用させるか、考えなければならない。なぜなら、こうした手段は対象となる人びと各自の能力ーーー例えば説明を読んで理解する力があるかとか、色覚異常かどうかなどーーーに合わせて調整する必要があるかもしれないからである。
 また、リスクは、責任者が統合的な方法で査定するべきである。リスクを査定する際に重要なことは、責任者が全体像を思い浮かべながら行うことである。それは、危険を他の要素から切り離してそれだけに注目したり、ごく限られた時間だけをとりあげたり、システム全体としてではなくそれぞれの場所の特性に着目してリスクを査定するということではない。
 しかし、リスク管理手段全体が、費用がかかりすぎるという理由で実施不能とされるようなことがあった場合、特定の場所におけるリスク管理手段の適用性を、合理的に実行可能かどうかを判断するーーー例えばある場所では、「重大なリスクがあるにもかかわらず、費用はそれほどかからない」といった具合にーーーには、場所ごとにリスクの考察を行うべきである。


経費

 ここで言う経費とは、責任者が、特定されたリスクの除去のために講じる手段を行うことによって必要となる費用を指している。エドワーズの判例でみると、控訴院は、お金、時間、労力という観点で経費に言及している。こうした経費は、リスクを低減する手段を実行するため、必要かつ十分と判断されたものに限られるべきである。
 こうした特定の手段には、設置、操作、保全のための費用だけでなく、その手段を講じることによって発生しうる生産性の低下による損害、例えば、新しい保安員は機械を効率的に操作できないかもしれないというようなことも考慮する必要がある。
 実施に際し、一時的な操業休止によって被る損害も経費に含めなければならない。なぜなら、こうした損害も、責任者の経費の一部であることが明白だからだ。HSEは、責任者が、一時的な操業休止による損失を最小限に抑えられるよう、あらゆるチャンスを最大限に利用することーーー例えば、事前に予定されていた保全修理期間にリスク管理手段の実施時期を合わせるなどーーーを期待している。リスク管理手段の実施だけのために一時的に操業休止するのではなく、計画されていた保全修理期間に合わせてリスク管理手段を実施させる方が、より合理的に実行可能といえよう。
 事業者各自に、リスク管理手段を提供する能力、もしくは特定プロジェクトにかかる費用を負担する経済力があるかどうかは、費用の査定を行う際の合理的な要素とは言えない。HSEは、責任者に、不利にならない事業条件を提供するべきである。ところがHSEには、リスクが「合理的に実行可能な最小限度内(ALARP)まで低減された」か、あるいは安全衛生が「合理的に実行可能な範囲内(SFAIRP)で確保された」かを判断する際、事業場者の規模や財政状態を考慮することはできない。
 事業者が安全衛生確保のために設けた手段によってもたらされた利益は、手段を講じることに使われた費用と相殺すべきである。


比較

 エドワーズの判例は、リスクと経費の比較検討を行う基準を提供している。その基準とは、「著しい不均衡が存在するかどうか」である。リスクが「合理的に実行可能な最小限度内(ALARP)まで低減されたかどうか」という査定において、リスク低減のための手段にかかる経費が、リスク低減によってもたらされる利益を大幅に上回る場合、その手段は除外されることとなる。
 しかし、「ある手段を、経費という基準で除外するためには、そこに『著しい不均衡』が存在することが前提となる」という考え方は、安全面で偏った解釈をしていると見ることもできる。「リスクが重大なほど、疑いなく、コストという要素の重要性は低くなる」という言明によってHSEは、「リスクが重大なほど、その低減のために多くを出費するべきで、安全面に偏る」ことを良しと信ずるようになった。このことを「均衡要因(proportion factor)」と表現することができ、「著しい不均衡」が存在するかどうか判断する以前に、最大級の犠牲を払うことを示唆している。
 この問題を扱う正式な判例はないが、「リスクが重大なほど、『著しい』という判断を下すに至るまでの費用割合が高くなる」ことを、HSEは正しいと信じている。しかし、ある手段を除外する時の判断基準となる不均衡は、いつでも「著しい」ものでなければならない。
 HSEは、所定の危険レベルに関する「均衡要因(proportion factor)」を決定する時に利用できる、問題解決のための段階的手法(アルゴリズム)を確立していない。また、偏りの限度については、あらゆる状況を考慮した上で論じなければならない。特定の環境下におけるその種の危険に関する見解は、比較対照が可能な別の環境でどのような要素が適用されたか、あるいは特定の業種でどのような要素が適用されたかを吟味することにより、得ることができるであろう。
 リスクが重大になるにつれて利益に対する考慮の度合いを高めることは、費用と利益を比較する際の不正確さをある程度まで補うことになる。しかし、リスクレベルが高くなるにつれ、不慮の死亡事故や傷害の発生など、不正確さがもたらす結果の衝撃は甚大になり、再び安全面で誤った判断を下すようになる。
 低減すべきリスクと、リスク低減の手段を実行するための損失を測定するには、まず現状をよく見つめることである。もし、いくつかの選択肢が存在するなら、その一つ一つを現状にあてはめて考えてみるべきである。
 しかし、このような方法で、選択肢の可能性を査定することができない場合もある。例えば、ある設備を作り上げたとして、その設営費用とリスク低減にかかる費用を分けることはできない。こうした状況では、既存の優良事例など、「合理的に実行可能」な方法に立ち戻るべきである。さらなるリスク低減手段が「合理的に実行可能」かどうかを決定するために、原点に戻って、その他の選択肢を熟考するべきである。
 リスクと経費の比較検討を行うのと同様に、以下の課題について、いくつかの選択肢の中から選ぶ前に考察を行う必要がある。


社会的関心

 社会全体に強い衝撃を与えるようなリスクが顕在化すると、社会の関心も自ずから高まるだろう。強い衝撃は、反社会政治的な反応ーーーこのような反応は、自分の身に降りかかってくる危険の特徴に対して、一般市民が抱く嫌悪感に端を発するーーーを招く恐れがある。そして、市民保護の準備や計画に対する社会の信頼が失われ、その結果として、特定の危険だけでなく全般的な危険の管理を行う取締官ならびに責任者の信用が失墜してしまうという、有害な状況になりかねないのである。
 このような状況は、多数の人命が一度に奪われてしまうような場合、これを、われわれは「社会的リスク」と呼ぶがーーーたとえば、犠牲になり得る人びとが子供のような無防備で弱い場合、あるいは、リスクの性質が長期的あるいは不可逆的な影響を及ぼすような非常に恐ろしい場合ーーーに起きる可能性がある。
「著しい不均衡を特定する際に、責任者は社会の関心を考慮すべきかどうか」という問題に関し、裁判所はガイダンスを出していない。しかし、英国安全衛生委員会(HSC)は、リスクと経費を社会という文脈のなかで評価しなければならないと考えている。HSCは、個々のリスクと同様、社会の関心も考慮に入れているのである。
「その手段が著しく不均衡かどうか」ということを判断する際には、どんな場合でも「社会的リスク」ーーーつまり労働者や一般市民のような非常に大勢の人々が一度に死んでしまうことーーーを考慮すべきではないかと、HSEは考えている。なぜなら、死者一名の事故が10回発生するよりも、一度に10人の死者を出す事故が起きることに、社会はより強い嫌悪感を抱くからである。
「責任者は他の社会的関心も考慮に入れるべき」とHSCは考えており、法規や公認実施準則(ACoP)やその他のHSEの指針にも、責任者がいかにそうした関心事を斟酌すべきか、そしてどのような内容に関心を抱くべきか、明記されている。


リスクの移動

 危険を管理するために導入した安全衛生の措置によって、リスクが他の労働者や一般市民へ移動する場合がある。
 もしも移動したリスクが、以前と同じ危険因子から発生しているようなら、それを、考慮中の手段がもたらす利益と相殺させる。たとえば、機械から発生する排気を換気装置で排出したとする。煤煙は作業場から外部へと排出され、同一の危険因子(煤煙)に起因するリスクは、従業員から一般市民へ移動することになる。そうして一般市民へ移動したリスクを、従業員が受ける利益と相殺させるのである。
 また、もしも移動したリスクが、以前とは異なる危険因子から発生しているようなら、別個の問題として扱うべきであり、それぞれが、「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)までリスクを低減させられるように、適切な管理手段を導入する必要がある。たとえば、一般市民を落下物から防護するために設置する足場の幅木は、幾分かのリスクを、一般市民から足場の組み立て作業に従事するとび職へと移動させることになる。一般市民のリスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減させるべく幅木は設置されるが、同時に、以前とは異なる危険因子(すなわち、とび職が高所から落下すること)が生じるため、責任者は、とび職がリスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減するような方法で作業を行っているか、確認しなければならない。しかし、リスク管理が適切に行われているという前提で、仮に労働安全衛生上の措置に起因するリスク、この例で言えば、足場の幅木が、それを防止しようと導入した手段によって生じた一般市民にケガを負わせるというリスクよりも深刻な場合には、その措置はとるべきでない。


変更後の状況

 責任者は、装置が稼動する状態に手直しを加えたいと思っているかもしれないし、そうでなければ管理手段のうちいくつかを、あるいはそのすべてを、状況の変化に応じて変更したいと考えているかもしれない。変更後の管理手段がリスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで確実に低減しているかぎりにおいて、そのような改変は許容されている。


優良事例

 リスク管理の手法を決定することは、責任者が実施要求されている法定リスクアセスメントの一部に組み込まれている。そのようなアセスメントは、責任者による次のような作業を通して遂行される。まず、自らの職場で生じている危険を特定し、誰がどのようなかたちで危害を被っているのかを確定する。次に、現に生じている危険に基づいてリスクを評価する。そして、既存のリスク管理手法が十分なものであったか、あるいは更に充実させる必要があるかを評定するのである。
 実際には、特定の安全衛生問題への対処法には限られた選択肢しか残されていない場合が多く、なかでも最善策は、そのほとんどが、「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで確実にリスクを低減させる優良事例としてHSEも認める、すでに確立されたものであることが多いのである。HSEのスタッフは、「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)までリスクを低減するよう求める法的基準を満たすため、優良事例を詳細に記述した権威ある情報源ーーーHSCの公認実施準則(ACoP)や、安全衛生庁の指針ーーーに依拠することができるのだ。
 責任者が「自身の活動に最適な優良事例を利用しているか」、「業務から発生するリスクに適切な優良事例で対処しているか」、「業務から発生するあらゆるリスクを優良事例はカバーしているか」、HSEのスタッフはこのような点を確認すべきである。ただし、HSCの公認実施準則(ACoP)やHSE発行ガイダンスといった文書は、責任者が考慮しなければならないリスクの一部を取り扱っているにすぎない。リスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減させるために、責任者が取り組むべきリスクの全てを網羅しているような、そんな優良事例を見つけることはまず難しいだろう。安全対策に対して大資本が投下されている場合、あるいは安全事例制度によって危険が管理抑制されているような場合、特にそのような傾向が見られる 。
 産業界で広く行われている方法が、優良事例、あるいはリスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減できるものとは限らない。それゆえ、義務を有する責任者は一般的な方法を鵜呑みにしてはならないのである。HSEは、これまで生み出されてきた優良事例をこれからも認容していくかどうか、再検討し続けなければならない。その理由は以下のとおりである。

● その優良事例が、時間の経過とともに、適切でなくなる可能性があるため
● その優良事例が、新法の制定とともに、認容されなくなる可能性があるため
● 新技術の導入によって、実行可能な、よりハイレベルな規準が設けられる可能性があるため

 これと同様に、責任者が適切な優良事例を吟味し続けることをHSEは期待している。
 HSEのおおかたの判断は、責任者が実際おこなっているか、もしくは提案している方法を、適切な優良事例と比較対照することで下されている。適切な優良事例は、リスク管理に関する普遍的なアドバイスを、責任者に提供するため、その優良事例を採用するかぎり、責任者は、個々のリスク、コスト、技術的な実行可能性、残留リスクの認容性を考慮しないですむ(法的義務でない)。なぜなら、そうしたものは、優良事例が確立した時点で精査済みだからである。
 それゆえ現実には、日々生じる危険に関し、明確なリスク評価を行う必要性はほとんどないのである。しかし、どのようなリスク管理方法が必要か実証する優良事例が存在しない場合、責任者はリスク評価を行わなければならない。


いくつもの選択肢の中から選ぶ
 あるプロジェクトが進行している時、さまざまな段階で、数ある選択肢のなかから最適と思われるものを選びだす作業を行わなければならない。それは、たとえば以下のような内容である。

● 計画段階では、プロジェクトの全体像に関する様々な計画コンセプトのなかから選ぶ
● プロジェクトが進行していくにしたがい、より細かな内容に関する選択を行うようになる

 こうした選択を行うに際し、責任者は、プロジェクト開始から終了にいたるまでの、サイクル全体に関わるようなリスクを考慮しなければならない。
 HSEに、安全事例や安全計画の提出を要求される計画段階では、責任者が提示した選択肢の評価をHSEが行うことになる。その選択肢が、リスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減できないような場合には、HSEは安全事例を却下し、責任者に対して別の選択肢を考えるように要求したり、(状況にもよるが)計画の続行を中止させる権限を行使する場合もある。HSEは取締官としての知識ーーーその分野における優良事例や、他の計画案にどんなものが考えられるかといった内容ーーーに基づいて、提出された計画案がリスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減できるかどうかについて判断を下す。提出された計画案が「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減できない場合、HSEは状況次第で介入も辞さない。つまり、計画の続行を阻止したり、責任者に対してHSEの見解を通知するのである。
 「なぜその計画が選ばれたのか」その理由を考えることは、「何が合理的かつ実行可能なものであるのか」を考える際に役立つ。計画案にそって続行していかなければ事業の本質や精神を獲得できないような、特定の法律上の文脈や問題となる状況がある場合には、HSEは計画の続行を中止させることを目的に、その選択肢を棄却することはできない。問題は、いかにして、選択肢のリスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減するかである。しかし、そのような状況が起きることは稀である。多くの場合、問題となっている事業の本質を達成しようとする時、いくつもの選択肢が考えられるものである。
 より詳細な段階では、リスクが「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まですでに低減されているか、あるいは「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで管理可能かについて判定を下すことを、HSEはいくつかの選択肢の中から選ぶ際の最重要事項と考えるであろう。しかし、その選択肢が選ばれた理由も関連要因であろう。例えば、本来的に危険な成分を使用するようなプロセスであっても、その成分なくして、責任者の業務に必要な製品を供給できない場合、HSEもその使用を容認せざるをえないだろう。
 実際問題、コストに著しい不均衡が生じないことが明らかになった場合、責任者には、アセスメントでいくつもの選択肢が残されていることだろう。残留リスクが最低水準まで抑えられた選択肢、もしくはそのような選択肢の組合せを、コストに著しい不均衡が生じない限り、実施すべきである。リスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減することを命じる法的要求によって、HSEは「明らかに安いが安全性で劣る」選択肢を除外せざるをえないのである。


新設プラント vs 既設プラント

 以前からあったプラントと、同様の設備をもつ新しいプラントのリスクをそれぞれ「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減させると、残留リスクは、既設プラントの方が新設プラントより高くなることを記憶しておく必要がある。残留リスクのレベルに差が生じる要因は以下のとおりである。「既設プラントで使用している旧型装置を更新させた場合の実効性」、「新設プラントに導入する時よりも、既設プラントの旧型装置を更新した場合の方がコストが余分にかかる」、「既設プラントの装置を更新した場合のリスク、つまり新型装置の導入によってもたらされる利益と比較検討しなければならない既設プラントの耐久年数の予測」などである。
 以上のことから、次のようなことが言えよう。「新設プラントのリスクを「合理的に実行可能な最小限度内」(ALARP)まで低減することにより要求される内容とすべての新設プラントで優良事例と認められそうな内容を、そのまま遡及的に既設プラントに適用することは「合理的に実行可能」とはいえないのである。