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アジアの発展途上国における
労働安全衛生マネジメントシステムの役割

−ILOの考え−

資料出所:「Green Cross」2000年9月号 P14-17
(訳 国際安全衛生センター)

東アジア総合学術諮問チーム
国際労働機関労働安全衛生専門家
川上剛


高まる労働安全衛生への関心

アジアの多くの国で、労働における安全衛生確保の重要性が注目されつつある。ILOの推計では、毎年、世界で約120万人が労働災害と労働関連の疾病で死亡し、1億2,000万人が負傷または罹病している。そのうち半数以上が、アジア太平洋地域に集中しているとみられている。労働関連の死亡や負傷の多さは、明らかに急激な工業化に関連している。生産技術の移転は、危険な機械、有害な物質と労働環境、重量物の運搬、長くて不規則な労働時間、単調な反復作業、適切な労働者向けの厚生施設の欠如など、災害と疾病のリスクをもたらした。労働による負傷と疾病から労働者を守るために、国と職場の両段階で緊急な対策が必要になっている。

アジア太平洋地域での労働災害と職業性疾病の深刻さが明らかになるにつれ、この地域の多くの国と企業は、これに伴なう経済的損失を認識するようになった。労働時間の損失、生産性、補償、医療費、災害がもたらす被害などのコストは甚大で、多くの国で社会的、経済的成長の深刻な妨げになっている。経済的コストだけでなく、社会的負担、被害労働者と家族の苦しみもある。労働災害と疾病は、労働者の士気を低下させ、労使関係にも大きな支障をきたす。こうした産業では、生産性と品質悪化のリスクも高まり、ついには顧客の信用も失う。安全衛生の改善は、すなわち企業の生産性と競争力向上に直結することを理解する事業者が増えている。事実、国内の人的、物的資源を利用し、低コストで安全衛生を改善することは可能だということを、アジアの各国は証明している。


一貫した国内政策の決定と職場の直接支援

アジアの開発途上国がかかえる労働安全衛生の問題は多様で、解決には体系的なアプローチを必要とする。現状改善のためには、とくに法律と国内政策の見直しによる総合的な対策が必要である。企業の取り組みへの直接的な支援、労働者の参加促進、訓練と情報の利用拡大も必須である。

労働安全衛生改善の切迫した必要に応えるため、ILOは加盟国の政府および労使のパートナーと協力し、職場の安全衛生改善に向けた取り組みを強めてきた。とくに建設、炭坑、農業などの危険業種で、立場の弱いグループを含めた安全衛生を確保すること、そして職場の具体的な改善を促進することに重点をおいてきた。ILOの1981年の「労働安全衛生に関する条約」(第155号)、および1985年の「労働衛生機関に関する条約」(第161号)は、加盟国の安全衛生法と関連政策の枠組みを決定する基本理念を提供している。

安全衛生への認識と対策をより強めるため、ILOは「SafeWork InFocus Programme」を決定し、実行した。このプログラムは、以下の4つの分野に明確に焦点を合わせている。

(1) 危険な条件にある労働者の保護。建設、炭坑、農業など危険な業種と分野の労働者を、環境への影響を適切に考慮しつつ保護するため、ますます多くの加盟国が予防的な政策とプログラムを策定、実行している。
(2) 立場の弱いグループへの保護の拡大。女性、働く母親など、従来の保護策の対象からもれていた立場の弱いグループへの効果的保護が拡大されている。
(3) 労働者の健康と福利の促進。労働者の福利、労働衛生マネジメント、労働生活の質の問題を解決するため、政労使の情報収集が改善され、体制が整備されている。
(4) 保護には経済的見返りのあることの証明。労働者保護の社会的、経済的効果は、国際的にも国内的にも、また企業でも、政策と方針の決定者によって記録、承認されている。


アジアの労働安全衛生マネジメントシステムに対するILOのアプローチ

アジアでは、労働安全衛生マネジメントシステム(Occupational Safety and Health Management Systems:OSH−MS)を導入する事例が増えている。たとえばインドネシアは、1996年に労働安全衛生マネジメントシステム規則を決定し、タイは1998年に労働安全衛生マネジメントシステム基準を確立した。他の多くの国も、安全衛生の向上のために、適切な労働安全衛生マネジメントシステムの策定、導入を計画している。

ILOも、安全衛生基準実現のための新たな実用的方法として、労働安全衛生マネジメントシステムに注目するようになった。1998年、ILOはIOHA(国際労働衛生学協会)と協力し、15カ国を対象に、24件の労働安全衛生マネジメントシステムに関する基準、実践規範、指針文書を検討し、システムの有効活用のための共通かつ有益な要素を導き出した。

その結果、安全衛マネジメントシステムの基本要素には幅広い側面のあることが明らかになった。具体的には次のとおりである。

− 経営陣の強固な取り組みと資源
− 労働者の参加
− 労働安全衛生方針
− 目標と課題
− 実績の測定
− システムの立案と開発
− 労働安全衛生マネジメントシステムのマニュアルと手続き
− 研修システムと技術
− 危険抑制システム
− 予防および是正活動システム
− 調達と請負契約
− コミュニケーション・システム
− 評価システム
− 継続的改善
− 他の事業プロセスや経営評価との統合

以上の詳細はインターネット
http://www.ilo.org/public/english/protection/safework/cis/managmnt/ioha/index.htm)で参照できる。

検討報告書は、経営陣の強固な取り組み、資源の配分、継続的改善、他の経営システムおよび組織管理のプロセスとの統合、経営陣による検証など、管理システム・アプローチの重要性を強調している。いうまでもなく、国内法と規則は順守しなければならない。リスクアセスメント、危険性評価、研修と情報など、既存の労働安全衛生の具体策も同様に重要であるとされている。すべての基本要素を一体として機能させるには、労働安全衛生マネジメントシステムにおける内外のコミュニケーションおよび情報システムの構築がとくに有益である。労働現場の多数のリスクに対する職場の見方を吸い上げるための実用的で明確なフィードバック・システムは、絶対に必要である。検討報告書は、周囲の地域社会や環境、下請け業者の労働条件など、より幅広い側面も指摘している。そしてILOの取り組みは、労働安全衛生マネジメントシステムの発展におおいに貢献すると結論づけている。

IOHAとILOの検討報告書に基づき、労働安全衛生マネジメントシステムに関するILO指針が現在作成されている。指針と付属の実施文書は、ILOが確立し、加盟国と三者メンバーで合意した価値観を基礎とし、あらゆる職場で労働安全衛生向上の道具として活用されることを念頭に作成される。指針案は、2000年中にさまざまな分野と国で試験的に評価される。これには各国政府と関連諸国、国内と国際的な労働者および使用者団体、この分野の専門機関が協力および協議し、国際標準化機構(ISO)とも協議する。指針案は、2001年にILOの三者専門家会合に提出して承認を受け、望ましい国内条件と、企業レベルの適切な労働安全衛生マネジメントの枠組みの両面での一般要件となる。ILOの労働安全衛生マネジメントシステムの有効活用について討議するため、国内と地域でのワークショップが計画されている。


あらゆる職場を支援するための研修と情報

ILOは、現地の関係者による具体的な職場活動の立案を支援するため、安全衛生に関する研修と教育の普及に取り組んできた。その一環として、行動重視の研修プログラムである「小企業での労働改善」、いわゆる「WISE」を考案した。WISEプログラムは、具体的成果に直結する研修のための有益なヒントを提供する。その方法論は、生産性と安全衛生を結びつけることで、小企業所有者の興味を引きつける内容になっている。WISEを適用するなかで、効果的研修のためには次の点を重視する必要のあることが明らかになった。つまり(1)現地の慣行を基礎にした多面的改善、(2)現地の条件に合った前向きな成果と実行可能な解決策、(3)経営陣と労働者を研修パートナーとして結びつける実地学習方式であること。WISEは、小企業の企業主と労働者の双方にとって有益であることが証明された。表1のとおり、WISEは現地での自助努力を重視した6つの基本原則を採用している。また、労働条件と生産性の一体的改善を目指している。こうした実用的なアプローチを採用しているため、各地の企業家と労働者の大きな関心を集め、彼らの自主的取り組みによる多数の改善例を生み出した。特筆すべきは、WISEの研修コースで提案された改善案のきわめて多くの部分が、現実に実行されたことである。各地の職場に即した多面的ニーズを反映して、改善例にはさまざまな技術的側面がある。

表1. WISEの6つの基本原則

 1. 現地の慣行のうえに築き上げる。
 2. 成果に焦点を合わせる。
 3. 労働条件と他の経営目標とを結合する。
 4. 実地学習を活用する。
 5. 経験交流を促す。
 6. 労働者の参加を促進する。

労働安全衛生マネジメントシステムは、WISEが開発、採用した参加型の研修方式と一体となった形で運用することが期待されている。行動チェックリスト、グループ活動による効果、現地の好事例を示した写真集などの参加型研修資材を労働安全衛生マネジメントシステムで活用し、職場のリスクを正確に評価できる。WISEや同様の活動で確立された参加型の方式は、農業、多国籍企業、建設現場、学校、病院、ごく小規模の企業など、各種の業種に適用され、幅広い有効性が確認された。とくに興味深いのは、労働安全衛生マネジメントシステムと参加型方式には、職場段階での行動中心の自助努力を大切にするという共通点があることである。

労働安全衛生情報の効果的共有によって、安全衛生改善への現地の取り組みが前進している。ILOとフィンランド開発庁(FINNIDA)によるアジア労働安全衛生プロジェクトは、多数の職場が実際に利用できる情報ネットワークを強化している。アジアの多くの国が、普及キャンペーンと全国的な安全週間活動に取り組んでいる。アジアの近隣諸国間をはじめとする国際的な協力プログラムは、成功経験を交換し合い、今後の実際の活動方向を探る良い機会となっている。

ILOが真剣に検討しているのは、安全衛生改善に向けた職場段階での取り組みをいかに実質的に支援し、具体的な成果を後押しするかという点である。この目的達成のため、安全衛生改善でのILOの幅広い経験に基づく労働安全衛生マネジメントシステムは、各国で新しい強力な手段になるだろう。

アジアの安全衛生改善を目指す労働安全衛生マネジメントシステムとWISE方式

  1. 行動中心の自助努力の強調
  2. 現地のニーズと成功例を反映
  3. 政労使の協力を促進
  4. 実用的なリスク評価と体系的行動
  5. より多数の職場を支援するための簡潔かつ実用的な方式

WISEの主要な技術的分野(フィリピンで3,000以上の改善を実施)

  • 物の取り扱いと貯蔵
  • 作業場の設計
  • 製造用機械の安全性
  • 照明
  • 危険物質の制御
  • 土地・建物
  • 福利厚生施設
  • 労働組織
  • 実用的リスク評価のための行動チェックリスト
  • グループ活動による効果
  • 既存の成功例の学習
  • 低コストの改善からのスタート
表2. WISEで立案、実行された改善件数(1994年−1996年)

  技術的分野

立案件数

実行済みまたは実行中

実行予定

  物の貯蔵と取り扱い

409

364(89%)

45(11%)

  作業場の設計

167

134(80%)

33(20%)

  製造用機械の安全性

166

142(86%)

24(14%)

  危険物質の制御

116

98(84%)

18(16%)

  照明

260

225(87%)

35(13%)

  福利厚生施設

239

196(82%)

43(18%)

  土地・建物

482

373(77%)

109(23%)

  労働組織

185

150(81%)

35(19%)

  環境保護

46

43(93%)

3(7%)

  合計

2070

1725(83%)

345(17%)

WISEでは、研修プログラムは参加者の行動に直結するように慎重に考案されている。研修コース成功のカギは、参加者の積極的参加を促すための安全衛生研修ツールを活用することである。研修プログラムでは、教官が技術的指導を行う前に、まず行動チェックリストをもって工場を訪問し、現地のすぐれた実践例や必要な改善点を把握する。行動チェックリストの項目は、労働現場の多様なニーズを反映させている。表2は、そうした行動チェック項目の例で、金属産業向けに考案されたものである。行動チェックリストは、膨大かつ完璧なチェック項目を示すためではなく、基本的な行動ポイントを絞ることに目的があるのを忘れてはならない。研修参加者に対しては、行動チェック項目に縛られず、自身の経験に基づいて改善案を提案するよう促す。伝統的な教室での講義に代わる、現場重視のこうした研修プログラムは、参加者の自主的行動意欲を高めることが証明されている。上述のとおり、行動チェックリストと並んで、(1)改善の手がかりとしての現地の模範例、(2)分かりやすい図をつけた単純な改善規則、(3)グループ活動の成果としての視野の拡大、有益な合意達成、チーム構築などの具体的提起と研修ツールが重要な役割を果たしている。

特筆すべきは、多数の改善例が低コストで実行され、しかも現地の基本的ニーズに応えたことである。タイ保健省の労働衛生研修実証センター(Occupational Health Trainnig and Demonstration Centre)が実施したWISE方式のプロジェクトで、多くの改善が低コスト(ほとんど20ドル以下)で実現できることが証明された。安価で、現地で可能な解決策は、明らかに改善コストの壁を打破し、労働現場に大きな効果を及ぼした。途上国でも先進国でも、法律による安全衛生基準と現地の実態の間に大きな格差があることがしばしば指摘されてきた。低コストの改善戦略は、多数の職場でこの格差を埋めてきた。実のところ、低コストで考案された現地の取り組みは、法定最低基準の順守にとどまらず、既存の基準を超えて、拡大し変化する現地のニーズに応えることを目的としている。

WISEの成果の持続可能性と効果は、フィリピンとタイで検証された。フィリピンのセブ島では、WISE研修コースの成果をフォローアップし、その持続可能性を調査した。コースには20の企業が参加し、108件の改善案が提案された。コース期間中とその直後の短期間に、61件の改善が実行された。さらに1年間のフォローアップの結果、43件の改善が実行され、新たに10件の改善が加わった。中断されたのは12件で、進行中は18件だった。またフィリピンでは、現地で考案された改善策のエルゴノミクス的効果を、筋電図記録法を用いて実地検証した。専門家が直接関与せずに現地で考案された改善策は、筋肉の緊張緩和に有効であることが、いくつかの改善事例で証明された。タイでは、労働社会福祉省の労働安全衛生センターが、小規模の金属加工工場を対象に、WISE方式で多数のエルゴノミクス的研修コースを実施した。3年間のフォローアップの結果、労働による負傷件数が減少したことが労災補償基金への報告で明らかになった。

WISEは、アフリカ、中南米諸国でも参加型のエルゴノミクス的対策で重要な役割を果たし、多数の成功事例を生み出した。こうした成功例では共通して、安全衛生行動チェックリスト、現地の模範例集、簡潔な改善指針、グループ効果の活用など、参加型研修ツールの重要性が指摘されている。WISEはエルゴノミクス的対策の面で新たな発展をとげ、対象範囲も拡大している。フィリピンでは、参加型ツールを改良した産業別WISEプログラムが考案され、衣料、金属、食品加工、木材加工業で実施されている。環境の全体的保護も、WISEの研修プログラムに統合されている。またフィリピンでは、WISEの具体的経験から学び、病院の廃棄物管理を目的とする参加型プログラムが開発、実施された。とくに興味深いのは、現地の経験と資源に依拠した参加型のエルゴノミクス的ツールを適用すれば、社会的、経済的、文化的背景が異なるさまざまな国、地域、業種で、一様に労働条件の改善を推進できたことである。