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国際安全衛生センタートップ国別情報(目次) > 台湾 ゼロ災害運動と安全衛生管理 〜10年の取り組みを振り返って〜

ゼロ災害運動と安全衛生管理
〜10年の取り組みを振り返って〜


林聡明

資料出所:中華民国工業安全衛生協会発行
「工業安全衛生」2004年10月号(184) p.53
(仮訳 国際安全衛生センター)



一、 前言

 工業団地で同僚と顔を合わせる時は、決まって「ゼロ災害よし!」とジェスチャーを交えて挨拶する。その親しみを覚える挨拶に、1993年の初夏、電信回線の作業員として桃園復興郷角板山で行われた労工委員会主催、中華民国安全衛生協会主催代行の「ゼロ災害危険予知指導員訓練班」に参加した時のことを思い出す。その日は20〜30人の訓練生と共に台北から遊覧バスに乗って桃園の訓練現場に向かった。到着してバスの扉が開くと、そこには顔立ちの良い短パン姿の男性が待ちわびていたかのように立っており(当時、彼の肩書きは知らなかった)、両手を広げ、笑みを浮かべながら「お疲れさま!ようこそ!」と出迎えてくれた。その短い挨拶と身振りに、私たちは彼の「真心と誠意」を感じ取った。私はこの心温まる初対面の一幕を今でも忘れることができず、そのためか、その後も労働安全の分野にのめり込んできた。そして自己紹介の際、出迎えてくれた男性がかの有名な労工委員会の藍福良・科長であることを知った。あれから10年、藍科長は処長となり、ゼロ災害推進委員会の主任委員を兼任している。しかし、彼が私たちにとって永遠の安全衛生ボランティア隊隊長であることには変わりはない。これも縁なのだろう。

二、ゼロ災害運動の展開

(一)啓蒙期

 ゼロ災害のロゴはハートマークを象っており、慈愛を起点としていることを示している。また、親指と人差し指の指先を合わせた円の中には緑色の十字があり、災害ゼロを表している。残りの3本指は政府、労働者、事業者が災害除去に向けて共に協力し合う決意を表現している。このシンプルなジェスチャーと簡潔明瞭な文字を初めて見た時は、なんと素晴らしい組み合わせだろうと感動したものだった。これまで職場では売上と利益だけを追求してきたが、今では社会の暖かな一面に心を動かされた。生活のために汗水流して働く労働者に関心を寄せ、尊い命を守るために、多くの人たちが学び、心を尽くして奉仕しているのだ。訓練の初めの授業では、脱俗した心の饗宴を楽しむかのような心地良い快感を覚えた。
 また、訓練の中で、台湾電力(1984年)、中国石油(1984年)、遠東化繊(1986年)、台湾砂糖(1987年)、国瑞汽車(1988年)、中美和化学公司(1990年)、中華紙漿注)公司(1990年)といった国内の公営・民営企業が、ゼロ災害危険予知運動を導入、推進後、事故傷害件数が5割以上激減したことを知った。これは日本が同運動を10数年推進した結果、災害が半減した経験に合致するものであり、その時、私の心には運動を推進していきたいという気持ちが自ずと湧き起こっていった。

(二)準備期

 訓練終了後、機が熟したと判断され、中華電信北区支社(当時の電信総局北区電信管理局)でゼロ災害運動を試験的に実施する運びとなった。これを受けて、3期にわたる上級管理職ゼロ災害危険予知研究討論会を速やかに実施し(中華民国安全衛生協会が代行し、新店直潭で実施)、安全衛生に対する観念と責任感を植え付け、首長および上級管理職の同調と支持の取り付けを図った。このほか、電信訓練所で10期のゼロ災害危険予知推進班を開き、ゼロ災害運動の予備軍を育成し、後の推進活動に資することを期した。

(三)推進期

 上級管理職の支持と受講者の増加により、各運営拠点では100回以上のゼロ災害危険予知訓練班を各自開催し、訓練所でも90期のゼロ災害危険予知訓練班が開かれ、2年間で北区支社の1万2000人余りの全従業員が訓練を完了させた。これに伴い、労働災害千人率も2.1から0.91に低下し、効果は顕著であった。これは前述の国内の公営・民営企業および日本における運動推進の効果を裏付ける結果ともなった。

(四)停滞期

 1996年7月、交通部は、当時3万6000人の従業員を有する電信総局を二分化することを決定し、電信監理業務は引き続き元電信総局が主管し、電信業務の運営は新たに設立する中華電信公司が行うことになった。これは電信総局が運営と監督の役割を同時に担っていることに対する社会の疑惑を払拭するために採られた措置であり、また中華電信を企業形態化することで、民営化に向けた準備を行うためのものでもあった。制度改正に当たり、従業員は電信総局に留まるか、新会社に同じ待遇で転職するかの選択肢が与えられたため、各支部は人員の編成や業務再編などに追われ、全支部に推進されるはずであったゼロ災害の関連活動は棚上げを余儀なくされることになった。会社の制度が改められた後も、5年以内の民営化に向けた準備を進めたため、従業員は戦々恐々となり、さらにこの5年間で会社側が早期優遇退職を幾度か実施したため、早期退職者は7000余人に上った。人事の急変や業務の変動は、ゼロ災害の推進を一層困難にし、ほぼ停滞状態となってしまった。さらに、民間電信業者数社との激しい競争や従業員数の減少、ネットワーク付加価値業務の開発投入による業務負担増などといったさまざまな環境要因により、従業員のプレッシャーは日増しに増大していった。これに伴い、業務上のプレッシャーと従業員の不注意による不慮の事故の発生が懸念されたが、安全衛生の関係者はどう対処すべきだったのであろうか。

三、改善された安全衛生管理

 ゼロ災害の推進は安全衛生管理の手法の一つである。10年間にわたる安全衛生管理への取り組みを振り返り、次の事項を特筆したいと思う。

(一) ゼロ災害危険予知活動の三大柱の一つである「雇用主の経営態度」は、活動推進の成敗を握るカギである。1994年1月17日に行われた「1993年度労働安全業務検討会」では、各電信支部の首長および工務、労働安全部門の主管など約200名余りが一堂に会した。また、当時の労工委員会の主任委員であった趙守博氏が招かれ、基調講演を行った。趙主任委員は労働者行政主管機関の立場から「労働者政策は労働者の福祉と結合させなければならない、労働者政策は経済の発展と結合させなければならない、労働者政策は社会の公平と結合させなければならない、労働者政策は民生の均富と結合させなければならない」という四大基本観念から語り始め、事業者による法令の遵守、安全衛生への重視、労働弱者層への配慮、生命の尊重などについて詳しく述べた。斬新で独特な主張と筋の通った見解は、参会者の共鳴を獲得し、その後のゼロ災害危険予知活動のスムーズな遂行に寄与したばかりでなく、安全衛生管理への取り組みにおける良好な基盤ともなり、その影響は深遠なものであった。

(二) 1996年、ゼロ災害運動の推進が一段落し、その効果が出始めた頃、前述の停滞期の状況に対応すると共に、ゼロ災害の精神を維持し、従業員を「災害ゼロ」の目標に導くため、「中華電信公司作業安全コンテスト実施要領」が制定された。これは、工務、営業、販売などに携わる全従業員をコンテストの対象とし、職務執行時と出勤退勤時における安全をすべてコンテストの範囲とするものであった。ゼロ災害に貢献した従業員には記念品を贈呈し、安全に対する概念を強化させた。こうした全員参加と奨励の措置により、ゼロ災害の推進を継続させることができたほか、ここ数年間においても従業員は災害に対する防止策を怠っておらず、労災防止の本来の目標も達成することができた。

(三) 2002年初、中華電信公司は労工委員会が2001年9月に制定した「大型企業および高危険事業者の労働者安全衛生自主管理と査察促進計画」に合わせ、会社の実際の需要に鑑み「中華電信公司安全衛生自主管理計画」を制定し、毎年定期的に各支部の査察を行い、査察の結果を当年度の最高管理者評価項目の一つとした。各支部の首長はこの制度を極めて重視し、労働安全面での実績効果における得点獲得に余力を惜しまず取り組むようになった。同制度は労働安全管理作業の「尚方宝剣(最高権力の象徴)」であったと言えよう。この3年間、PDCA (Plan-Do-Check-Action)を通じて体制を継続的に改善した結果、管理作業はより成熟していった。制度の確立は決して容易なものではないが、継続的して行っていくことにより、安全衛生の体制は確実に確立されていくであろう。

(四) 2002年4月12日、行政院労工委員会と中華電信本部が共催した「労働者の安全衛生自主管理座談会」では、主任委員である陳菊氏を始めとする労働検査処の関係者および国内の学者や専門家が、これまで中華電信で発生した労災について詳しく分析し、改善策を提起した。これに対し、当時の中華電信公司の董事長であった毛治国氏は、中華電信において優れた安全衛生体制の確立を指示すると共に、世界に歩調を合わせるべく、労働安全衛生マネジメントシステム(OHSAS 18001)の認証取得を政策の目標とし、中華電信を国際レベルの電信企業としていくと述べた。この宣言は、労働安全への取り組みの大きな転機となり、労働安全の関係者を小躍りさせた。今後の任務が並大抵なものではないと分かってはいたが、最高責任者の賛同は低迷していた労働安全への取り組みに心強い励みとなった。これを受けて、労働安全の取り組みは本部によって推進されるようになり、その影響力はより権威的なものとなった。本部では指導チームと企画チームが設立されたほか、各支部でも推進チームが設けられた。この期間には「労働安全人力集中運用要領」も制定され、全地区における労働安全の人材を網羅し、制度の企画からプロセスの推進、参与規模などが細かく討論された。最終的に、影響範囲が広範にわたり、費用も莫大に上ることから、慎重を期して3期にわたって取り組む運びとなった。第1期は南区支社と直轄する7つの運営処でOHSAS 18001の導入を試験的に行い、同年度からは全区39ヶ所の支部で国内自主保護制度の鑑定を実施し、安全衛生への取り組みを全面的に検証した。

(五) 2年余りの努力により、国際認証取得の作業は予定通り2004年11月末にも完成する見込みである(現在、既に初期評価段階をパス)。国内自主保護制度の鑑定に通過した支部は既に33を超え、その輝かしい成果に労工委員会も高く評価している。このため、同委員会は2004年度の全国自主保護制度の表彰式および相互学習イベントを特別に中華電信の本部で盛大に行うことを決定した。2004年7月5日、陳主任委員は挨拶の中で、中華電信の推進体制、賀陳旦・董事長の指導、各支部管理者の決意および安全衛生管理への取り組みを高く賞賛した。これは間接的ながら、労働安全関係者の貢献を大きく称えるものであり、私たちの苦労が無駄ではなかったことが証明された。

四、結論

 中華電信の労働安全関係者は、常に「能動・積極・革新・服務・実施」の五大理念を以て労働安全の関連業務を遂行してきた。企業の民営化に当たり、私たちには過小評価されることへの焦りと憂慮はなく、ただ労働安全の価値を創造することに大きな使命感を感じているだけである。このため、中華電信は2004年11月に「精緻労働安全コンセンサスキャンプ」を開催し、民営化前後の作業方針と今後の努力目標について話し合った。尊厳は自らを認めてこそ得られるものである。安全衛生協会が長年中断してきたゼロ災害運動を再開し、ボランティア隊隊長の藍処長が主任委員に選出されたと聞いた時は、心が躍り、耳目一新の感を受けた。彼の指揮の下で、労働安全の新たな価値の創造に向けて共に努力していこうではないか。今後の取り組みに対し、心から祝福したい。


[訳注] 紙漿:日本語では、「紙パルプ」になります。

「工業安全衛生」(中国語)は、国際安全衛生センターの図書館でご覧になれます。