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人が幸福を感じるとき
Some things make you happy!

Gustav Wickström(フィンランド)

資料出所:ILO/フィンランド労働衛生研究所(FIOH)発行
「Asian-Pacific Newsletter on Occupational Health and Safety」
2001年第1号(第8巻「Risk Surveys」)
(仮訳 国際安全衛生センター)

原文はこちらからご覧いただけます


かつて国際労働機関(ILO)の専門家としてタイに滞在した私は、それ以来12年ぶりとなる2000年9月に、ふたたび当地を訪れた。今回の訪問は、私に深い喜びを与えてくれた。こうした喜びを感じるのは最近ではめずらしいことなので、少し立ち入って説明したい。

約20年前、ボパール(インド)の大規模化学工場で事故が発生し、何千人もの人々が犠牲になった。この大惨事を受け、ILOは工業化を進める各国の化学的安全性を向上させるため、数件のプログラムに着手した。また多くの国の政府が、自国の労働安全衛生への懸念を強めた。東南アジアには多数の外国企業が進出し、工場を建設して世界市場向けにさまざまな製品を製造している。タイ政府がILOに対し、化学的危険有害要因などの近代的産業リスク対策の改善を目的とする支援を要請した結果、フィンランドの専門家であるJukka Takalaが主任技術顧問に任命され、新しい国立専門機関の設立に取り組んだ。このプロジェクトに基づき、職場の安全衛生リスクを把握し、全国的状況を監視する専門的体制をもった国立研究所が設立された。

だが年月を経るにつれ、首都に設立された国立研究所(NICE)のスタッフでは、全国で必要とされる専門的サービスを提供するには不十分なことが、徐々に明らかになった。このため、国立研究所と緊密に協力する地域センターのネットワークを構築する構想が打ち出された。これに似たモデルはフィンランドにあった。フィンランドの地域研究所の1所長であった私に対し、ILOは、タイ政府による3つの地域センター設立(1987年と1988年)を支援するよう要請した。ILOとUNDPによるこの新しいプロジェクト(いわゆるRICEプロジェクト)の任務は、チョン・ブリーの東部センター、ラーチャブリーの西部センター、ランパンの北部センターを設立することにあった。

私の任務は、国立研究所の所長であるChaiyuth博士、さらに労働省の他の職員に対し、設立予定の地域センターの業務、スタッフ、管理に関する助言を行うことだった。これらのセンターは国立研究所の地域機関で、国立研究所所長に直属していたため、ひとつの大きな懸念として、地域センターと各県の労働監督事務所などの機関との良好な関係を維持するという問題があった。

プロジェクト案によると、私の任務は次の諸点だった。

(a) プロジェクト・コーディネーターと協力し、新プロジェクト実施のための具体的な作業計画を立案すること。
(b) プロジェクト・コーディネーターと協力し、プロジェクトのためにILOが購入すべき設備を選定すること。
(c) プロジェクト・コーディネーターと協力し、3つの地域センターの組織体系と作業プログラムを立案すること。
(d) 地域センターのスタッフと各県の労働監督官向けに、研修カリキュラムと教材を用意すること。
(e) 地域センターのスタッフを対象とした研修を実施すること。
(f) 地域センターによる労働環境監視業務の立案と実施、さらに研修、情報普及活動などを支援すること。

私は、わが国の地域センターの業務指導では15年の経験があったが、タイでの任務はきわめて厳しいことが分かった。ジュネーブのILO本部でのブリーフィングでは、任務についての詳しい説明はなかった。幸い、当時のILOアジア・太平洋地域担当の小木和孝博士が、一定の指針を示してくれた。同博士の助言がなかったら、私はきちんとした仕事ができなくて、あっという間にイライラを募らせていただろう。小木博士は私に、どんな現実的な変化にも時間が必要なので、急速な変化を望んではならないと教えてくれた。また対立を避けること、そして対立に巻きこまれた場合、自分の考えを押し通すと事態を悪化させかねないため、少し身を引いて問題のカギとなる人々に解決を委ねるようにすべきだと警告してくれた。

1988年、2回目の半年間の滞在期間中に、ついに最初のセンター発足に成功した。だが、私の帰国時点では、チョン・ブリーのセンターが具体的な実地活動にどう取り組めるかは不透明だった。私自身が、そのために役立つことをできたかどうか、確信がもてなかった。たしかに、センターの開設を推し進め、県当局との協力関係を維持するために努力した。だがタイ初のセンターも、私の帰国時点ではまだ細胞の核の段階でしかなく、今後の行く末について確かなことは何もいえなかった。労働省の副部長は、楽しいお別れ晩餐会を催して、私の活動に感謝してくれた。象をあしらったフォークとスプーンのプレゼントもいただいた。このように当局の人々は私によくしてくれたのだが、それは普段の礼儀の一部にすぎず、必ずしも彼らが私の仕事に心から満足したことを示すものではなかった。

今回、私がタイを訪れたのは、シンガポールの国際会議からの帰国途中でのことだった。会議前にChaiyuth博士に連絡し、フィンランドへの帰路に博士を訪問して、私が1988年にタイを去った後の事情を知りたいと要請していたのだ。今回は、博士をはじめ、私に会う義務のある人はだれもいなかったのだが、彼らはそのための時間をとってくれた。国立研究所の現所長は、私の訪問時は外国に出かけ留守だったが、前回に知り合った多くの人に会うことができた。彼らに再会できたこと、その大半が研究所にとどまり、研究所創設時と変わらぬ活発さで業務に取り組んでいることを知ってうれしかった。夜は川辺のレストランでの夕食に招待してくれた。歌手が休憩時間に入ったとき、私たちはChaiyuth博士にステージに上がるようにいい、私たちだけでなく、すべての客のために流行のラブソングを歌ってもらった。

翌日、Vinai氏がチョン・ブリーの東部センターに案内してくれた。センターは、いまは自前の建物をもっている。所長のSopong氏とスタッフが、センターの現在の活動を説明してくれた。全員が忙しく業務に取り組んでいた。そして自分たちの仕事を有益なものと感じ、業績に誇りをもっていた。過去5年間に、この県の労働災害発生率は着実に低下してきた。もちろん、この改善にはいくつかの要因があるが、もっとも重要なのはおそらく地域センターの研修活動だろう。センターは企業の安全担当者向けに安全コースを開設しており、安全担当者は法律で参加を義務づけられているのだが、そのおかげで災害リスクへの自覚、災害防止対策の知識が大幅に向上した。多くの企業担当者が安全コースにしぶしぶ参加するが、その大半が終了時には災害リスクの低減に積極的関心をもつようになっている。県の労働担当者との協力も順調で、産業当局など他の県の役人との共同作業もうまくいっていた。私がプロジェクトに参加した当時は、3つの地域センターを設立する計画だったが、いまでは7つの地域センターがあり、これに加えて5つのエリア・センターが、国内でもっとも工業化の進んだ地区に設立されている。

私が幸福な気持ちになったのは、昔の同僚と会えて暖かくもてなしてくれたことにもよるが、プロジェクト自体が順調だったことも大きい。不安や心配を抱きながら、初の地域センターの活動開始に向けた助言に取り組んできたことは無駄ではなかった。価値ある業績に自分が貢献できたことを、この目で確かめることができた。私の役割は小さなものだったろうが、いずれにせよ素晴らしい成果となった。重要なことの達成に貢献できると、心からの幸福を感じるものだ。ラオスは、たしかに20年前のタイの状況と似ている。しかし、ラオスにはラオスの物語がある。

グスタフ・ウィックストローム
トゥルク地域労働衛生研究所
Hameenkatu 10 FIN-20500 Turku, Finland
e-mail: gustav.wickstrom@occuphealth.fi