看護師
資料出所:RoSPA発行「OS&H」|2001年4月号 p.21〜26
(訳 国際安全衛生センター)
今月は、注射針による傷が原因の悲劇を検証する。被害者の大半は看護師等の医療従事者、廃棄物の処理や清掃に従事する者である。ニック・クックが取材にあたった。
その患者は不安げだった。心配のために彼の顔は一層こわばり、やつれていた。バスの時間をしきりに気にしていた。彼はすでにこの町には住んでおらず、血液検査のためだけにやって来たのだった。地元の麻薬仲間とはすでに縁を切っていたが、できるだけ早く町を出たがっていた。バスに乗り遅れれば、町で2,3時間はぶらぶらしなければならなくなる。町には顔を合わせたくない人々がいたのだ。
マーティン・オルスターはこのクリニックの看護師だった。彼はこの患者の立場をよく理解していたので、バスに間に合わせてあげたいと考えていた。ところが血管がなかなか見つからなかった。麻薬の打ち過ぎで多くの血管が潰れていたためである。マーティンは何度も試み、ようやく成功した。彼は患者の血液を注射器で吸い上げ、サンプル管に採取した。事故が起きたのは、彼が注射針を回収容器に入れようとしたときである。
この容器は作業台の上、彼の右側にあった。彼は血のついた注射器を右手に持っていた。まっすぐ前に出せばよい筈だった。いまだにどうして起きたのか彼にも分からないのだが、なぜか左手が針の前にでてしまったのだ。
彼は針がゴム手袋を通して中指の指先に深く刺さるのを感じた。針と注射器を容器に入れながら、彼は手袋をはぎとり、指を流水で洗った。指から血を絞り出すようにしながら、自分の血と一緒に患者の血液とそこに潜む感染媒体が洗い流されることを願い、祈った。
「その間ずっと患者を安心させるように専門家らしく話続けていました」とマーティンは言う。「彼は私が誤って自分に針を刺したことに気がつかなかったと思います。」
患者はまくっていた袖を下ろすと出ていった。マーティンは目の前を見つめて座っていた。本当に起きたのだろうか。「全部なかったことにして忘れてしまいたいという誘惑にかられました。しかしそれはできないと思いました。」予想される影響が思い浮かんだ。この患者は長い間薬物中毒になっていた。そして、マーティンも知っているように、中毒の期間が長ければ長いほど感染の可能性は高い。
リスク
HIV, HBV, HCVに汚染された
注射針事故1件の感染リスクは
次のとおりである。
- HIV 0.3%
- HBV 6%−30%
- HCV 0.5%−2%
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彼は別の町にある所属トラストの労働衛生部に電話した。そこでGUM(Genito Urinary
Medicine: 泌尿器医療)部に連絡をとるようにと言われた。さらに地元の病院の救急外来に行くように、しかも急いで行くようにと言われた。
しかしマーティンがGUMに電話すると、留守番電話になっていた。そこで救急外来に行ったが、5時に閉まったところだった。彼は3分遅れで間に合わなかった。
危機というものは、単独の出来事として起きることは稀で、マーティンの場合も例外でなかった。彼の父親は心臓発作で入院していた。別の救急外来病院へ行くこともできたし、父親の見舞いに行くこともできた。彼は確率を秤にかけた。現在の留意事項としては、HIV感染の恐れがある場合、1時間以内に救急外来に行く必要があるとされている。この患者について知っていることから判断して、マーティンはこの確率は極めて低いと感じていた。
「私が特に心配していたのはC型肝炎でした。統計的に見てその可能性が最も高いと考えました」と彼は言う。彼は妻のジュリーに何が起きたかを話したが、9歳の娘ケイトにはまだ伏せておくことにした。
暴露後予防措置(Post Exposure Prophylaxis: PEP)
汚染後1時間以内に薬による治療を始めるべきである。
- HBV − 感染率が最も高いウイルスだが、排除の確率も最も高い。ワクチンで感染を防ぐことができ、汚染後の治療効果も90%以上である。
- HIVおよびHBC汚染 利用できるワクチンはない。PEPもHBVに対してほど有効でない。PEPには副作用がある。
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翌日、彼はGUMクリニックを訪れた。そこで外注の基本検査に出すための採血を受けた。だが注射針による傷から感染したかどうかが判明するのは3ヵ月先だった。C型肝炎の抗体が形成されるまでにそれだけ時間がかかるからである。
その日からマーティンの密かな地獄が始まった。彼は不安にとりつかれた。職業柄いつもそれを思い出すことになるため、不安を心から取り除くことができなかった。マーティンと同い年の36歳のC型肝炎の患者がいた。彼は慢性的な症状を呈し始めていた。彼は階段を上ったときに息切れすると訴えた。マーティンは彼を見て、自分自身の未来を覗き込んでいるのかと思った。
事故のしばらく後にドイツで過ごした休暇中も,心は休まらなかった。「友人のところに行ったのですが、そこの小さな女の子が私のコーラのびんを手に取ったとき、本能的にそれを取り戻そうと手を伸ばしていました。」
その子の母親は、「大丈夫よ。まさか病気っていう訳じゃないでしょう」と笑いながら言った。「C型肝炎が飲み物のビンから感染しないことは知っていましたが、万一に備えてどんな危険も防がなければと考えるようになっていました」とマーティンは言う。
<体験を語るのは良いことと言われるが、次に起きたことを考えるとマーティンは確信が持てない>
休暇から戻ると診療所に茶封筒が届いていた。開ける前から彼はそれが何かわかっていた。彼の恐れは現実となった。例の患者はC型肝炎だった。マーティンは回想する。「思わず私は彼を呪い、自分自身も呪って毒づいていました。」彼は通常以上に用心するようになった。自分の感染を家族にうつすことを恐れて、どんな小さな傷でもばんそうこうを3枚も4枚も貼るようにした。
体験を語るのは良いことだと人は言うが、次に起きたことを考えると、マーティンは必ずしもそうとは思えない。問題は職場の会議での彼の発言だった。最後に実例のつもりで、注射針による負傷のことなら、経験があるので話すことができると言った。そして自分に起きたことと、抗体テストの結果を待つ長い間の不安について語った。
その後、その会議に出席していた血液感染ウイルス・チームのリーダーが彼のところにやってきて次のように述べた。「今はもっと早い検査があるのを知っていますか。この検査だと1ヵ月間で結果が出ますよ。」(彼が言ったのはPCR(ポリメラーゼ連鎖反応法)のことである。)
マーティンはPCR検査を受け、結果を待つ間できるだけ普通の生活をするよう心がけた。「ある日、仕事から帰宅すると留守番電話にメッセージが入っていました。検査機関からで、明日電話するようにとのことでした。」
この「明日」というのが気になった。悪い予感がする。妻は彼を元気づけようとし、職場に向かう車の中で彼は気を取りなおした。というより、彼は大丈夫だと自分に言い聞かせた。ところが、電話すると検査の結果が陽性だったと告げられた。
「受話器を置き、状況を把握しようとしました。少し泣きました。皮肉なことに、肉体的にはすこぶる元気でした。私に関する限り、感染はただ紙に書かれた結果に過ぎず、非現実的なものでした。」
しかしマーティンはこれが現実であること、そしていまやスピードが最も大切であることを知っていた。彼は肝臓専門医の診察を受けた。「私は併用療法を勧められました。リボヴィロンという抗ウイルス剤をインターフェロンと併用すると効果があることが偶然発見されていました。この併用療法が現在の主な治療法となっています。」
それは楽しいものではない。週に3本の注射を打たねばならず、筋肉痛や高熱などの副作用を伴う。さらに悪いことに、インターフェロンは神経系統を刺激することによって効力を発揮するため、倦怠感や疲労感を引き起こす。
針または先端突起物による事故直後の行動
- 傷口から血を絞り出すようにする
- 冷たい流水と石鹸でよく洗う。傷口をひっかかないこと。消毒薬や洗浄剤は、傷口の防御の効果が不明なため使わないこと。1
- できる限り速やかに医師の診断を受けること。
- 事故の内容とその後の対応を記録する。
1. これは最近の保健省の出版物であるHIV Post Exposure Prophylaxis. Guidance from the UK Chief Medical Officers' Expert Advisory Group on AIDSに書かれた助言である。
Nursing Time誌の最近の記事(Sharp Practice Jan 11, 2001 Vol 7 No2 p22)では、アルコール基剤の消毒薬の使用を薦めている。
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突然、マーティンは先々のことを考えねばならなくなった。「通勤距離が往復120キロもあるのです。薬による影響はどうだろう。仕事にも影響を及ぼすだろうか。仕事だけでない。徐々に、私の生活のすべての側面に影響が現れるのではないかと思うようになりました。」
「たとえば、その年のうちに休暇をとって色々な活動をする予定を立てていたのですが、あまり体を使わず、日向ぼっこするような休暇に変更した方が良いのだろうと考えました。」
「変てこな状況でした。実際の気分は上々なのに、気分が悪くなる治療について考えることを余儀なくされていたのです。」そのうえ、この治療が効を奏して、肝炎が慢性にもならず、肝硬変や肝臓ガンにもならないという保証はなかった。
徐々に、マーティンは不快な治療をしても、結局は発症を防げないかもしれないという冷酷な見通しに直面せざるを得なくなった。
しかし彼を診察した肝臓専門医は別の考えを抱いていた。彼はPCR検査は信頼性が劣ると評価しており、再検査を受けるように勧めた。「なぜか、私は彼がそんなことを言わなければ良いのに、と思いました。現実的でない陰性という結果に希望を託すのが嫌でした」とマーティンは言う。
しかし彼は再検査を受け、ある木曜日の晩まだ職場にいるときに結果を聞いた。ある看護師が電話で検査が陰性だったことを告げた。最初彼はその結果を信じることができなかった。信じろという方が無理ではないか。陽性と陰性の両方の結果が出たのである。陰性の方を信じたいのはやまやまだが、本当に信頼できるのはどちらだろうか。
肝臓専門医はすぐにマーティンを安心させてくれた。彼は、PCR検査の信頼性が低いのは、検査室で別の検体と混ざって汚染される可能性が高いからだと説明した。このことは、誤って陽性となる可能性の方が、誤って陰性になる可能性よりずっと高いということを意味している。
マーティンは帰宅途中酒屋に寄って缶ビールを何本か買い、祝杯をあげた。彼は決して大酒飲みではないが、「肝臓に与える影響を心配せずに、再びビールが飲めるというだけで嬉しかった」と述べている。
ストレスや不安に見舞われたものの、最終的にマーティンは注射針による傷が感染には繋がらなかったということを知ることができた。しかし誰もがこのように運が良いとは限らない。注射針による事故で人から人へ感染する可能性のある病原体は20以上ある。そのうち最も深刻なのは、B型肝炎、C型肝炎、HIVの3つである。
組合の推計によると、イギリスでは年間10万件の針刺し事故が発生している。注射針による傷で看護師がHIVに感染したことが確認されているケースがイギリスでは5件ある。1996年には看護師2名が死亡したが、いずれも注射針による傷でHIV陽性となっていた。
米国では、注射針による労働者の深刻な感染は年間1,000人に上っている。今日までに注射針によるHIV感染が50件報告されている。一つの病院だけで5件も発生しているところがある。
注射針による事故は深刻な問題である。保健医療サービス部門の事故としては、これだけが突出している。ではどのように対処すればよいか。この問題をさらに詳しく調べるため、記者はロンドンにあるUNISONの本部でアシスタント・ナショナル・オフィサーを務めるジョン・リチャーズに会った。彼は保健医療従事者を担当している。UNISONに所属する保健医療従事者は44万人で、うち24万人が看護師である。同氏はこれらの労働者を管轄する全国的な責任者であるため、当然のことながら針刺し事故について説得力のある見解を持っている。
「1996年の会計検査院の統計をみると、注射針による事故だけでは報告された全ての事故の16%に上っています。」
注射針による事故から人々を保護することに関する議論では、リスクを取り除くことができるが現在のところコストが高い新しいテクノロジーの導入が焦点となっている。このテクノロジーとは、より安全な注射針、針の保護装置、さらに針を一切使わずにある種の処置を行う装置などである。ジョン・リチャーズは、これらの装置をデスクの上に並べ、どのように使うかを説明してくれた。
最初の例は、引込み式の針がついた注射器である。患者に注射したり、患者から採血してサンプル管に血液を入れた後、プランジャーをさらに押し込むだけで、バネによって針が注射器の筒の中に収納される。この装置の良さは、針が汚染された直後あるいは極めて短い時間で、針による事故が起こり得なくなる点である。
ジョンは続けていう。「針は患者の体から引き抜かれた瞬間に汚染されています。針による事故のリスクは一気に高まります。針を引き込むことでこのリスクを取り除くことができます。」
引込み式注射針は、それを直接扱う医療従事者を保護するだけでない。ジョン・リチャーズが説明するように、汚染された針は他の作業者をも危険にさらす。「いわゆる川下の事故もたくさんあるのです。ある病院では清掃係がビニールのゴミ袋に入れただけの針を扱ったという苦情がありました。」
安易な処理
「その中に、通常は手術室で胸の排液用に使う40センチ余りの針がありました。緊急事態だったため医師はこの特殊な針を病棟で用いたのです。しかしその処理方法を知らなかったので、脇に置いたままにしておきました。他の誰かがやってきてそれをただ黄色い袋に入れました。清掃係達は激怒しました。数人の清掃係は以前にゴミ袋からでてきた針でけがをした経験があったからです。組合の職場委員が、問題の調査中は争議行為を行わないよう清掃係達をどうにか説得しました。皮肉なことに、この職場委員自身が約1ヵ月後に注射針による事故に遭いました。その件は現在裁判になっています。」
これとは別に、医療従事者がいすの上においてあった注射針でけがをしたという例もある。
川下の注射針事故の場合、針の出所が突き止められないと特に大きなストレスをもたらす。感染の性質や可能性を予測するのが難しいからである。引込み式針を採用すれば、川下の注射針事故は大幅に減ると思われる。
もう一つの装置は、針先を自動的に鈍らせるものである。注射器の針の中に,もう一つの針先の尖っていない針が入っている。患者から針を取り出した後、先の尖っていない針が尖っている針の先から出てきて針が突き刺さるリスクを軽減する。
その他、注射器を使っている間針先から使用者を保護するプラスチック・ガードがついたものや、注射器と針の再使用を防ぐロック装置もある。静脈用機器では、針を使わない装置を組み込むこともできる。
UNISONはより安全な針の採用を強く主張している。彼らは昨年11月10日にクリントン大統領が注射針の安全・予防法に署名した米国の例を指摘している。これは上述のような安全な装置の採用を命じ、米国の800万人の保健医療従事者の保護を目指したものである。
この法案の成立には、リンダ・アーノルド等による活動が役に立った。看護師として働き始めたばかりの1992年に、彼女は米国ペンシルバニア州の病院で注射針による事故に遭った。それは彼女のミスではなく、静脈注射針を抜こうとしたときに患者が腕を動かしたため、彼女の左の手の平に針が刺さった。その患者はAIDSだった。6ヵ月後、リンダ自身もHIV陽性となった。
ジョンの指摘によると、より安全な針の多くがイギリス製であるにもかかわらず、イギリスではその採用が遅れている。現在のところより安全な針は必然的にコストが高い。実際、West Lothian Acute NHS Trustは最近、コスト増を理由に引き込み式注射器を採用しないことを決定した。
しかしジョン・リチャーズは、注射針による事故のコストも考慮すべきであると主張する。「もちろん補償費があります。ある開業医は注射針による事故で針恐怖症になり、46.5万ポンドの補償金を受け取りました。注射針による事故の損害賠償を求める被害者が増加しています。」
「さらに、従業員や患者の検査コスト、それに感染した従業員の長期にわたる治療費もあります。注射針の事故でC型肝炎やHIVに感染した労働者に対する複合投薬治療のコストは安いものではありません。リンダ・アーノルドは毎日22錠の薬を服用しなければなりません。さらに、感染や薬の副作用による休業も不可避です。また代替要員のコストやカウンセリングのコストもかかります。」
ジョンの経済的な側面からの議論は雄弁だが、彼にとってそれ以上に切実なのは、人間的な側面である。「人間のコストという隠れたコストがあるのです。注射針による事故に遭った場合、検査結果を待つ間の苦痛と不安はたいへんなものです。私はカウンセリングをすることがありますが、離婚の危機に直面した人々から電話を受けることもあります。彼等にはHIV、B型肝炎、あるいはC型肝炎に感染しているかどうかが分からず、家族に感染させる危険性がどの程度あるかも分かりません。これは計算されていないコストです。病院に座っているだけで、より安全な注射針を使う余裕がないと言っている人々は、この結果を考慮に入れていないのです。」
保健医療従事者に針の安全な扱いと処理について訓練を行うことの方が重要で、テクノロジーだけでは片手落ちであるという議論もある。情報や訓練の重要性を軽視するわけではないが、ジョンはリンダ・アーノルドが手順書どおりに仕事をしていたと指摘する。実際、年長の看護師達は彼女が規則を極めて厳密に遵守し、細心の注意をはらっていることを笑っていた。それでも彼女は事故に遭った。
「我々は訓練や感染管理、手袋の装着を推進してきましたが、効果がありません。それが現実です。しかし、安全度の高い針についてみると、米国で行われたテクノロジーや研究が示すように、これは効果をあげているのです。しかもその効果は早い段階で現れています。」
ジョンが指摘するように、この手法はCOSHH(The Control of Substances Hazardous
to Health Regulations: 有害物質管理規則)の管理順位と一致している。リストの中で最も優れた選択肢を目指すのが管理の基本である。ジョンはまた、新しい安全な針のテクノロジーは、事業者にCOSHH評価を再検討する新たな義務をもたらしたと指摘している。
注射針に関する詳細情報
- より安全な針に関するQ&A。「職場における針の安全性」 No.1 (UNISONガイド)
- より安全な針の評価。「職場における針の安全性」 No.2 (UNISONガイド)
より安全な針の効果は調査によって実証されている。このガイドブックは、より安全な針の種類と評価方法の解説書として役に立つ。
- UNISONによる、より安全な針、先端突起物, 針を使わない製品の製造・販売業者の最新版リスト。
上記の出版物はすべてUNISONで入手可能。Tel:0800 597 9750
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この記事のオリジナル本は国際安全衛生センターの図書館でご覧いただけます。
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