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ラテックス手袋アレルギーでキャリアが頓挫した看護師に
14万4千ポンドが支払われる
Nurse's career blighted by allergy to latex gloves receives £144,000

資料出所:The RoSPA Occupational Safety and Health Journal
2005年5月号 p.9
(仮訳 国際安全衛生センター)



 ボルトン王立病院(Bolton Royal Hospital)の看護師に、長年にわたって治療がされなかったラテックス手袋アレルギーの賠償として14万4千ポンド(約2830万円)が支払われた。看護師のBernadette Choucheneはもっともひどい状態の時には、真っ赤に腫れて血が流れる手で仕事をしていたが、アレルギーを発症してからの10年近くの間にボルトン王立病院の労働衛生部門に定期的に訪れていたにも関わらず、使用者は一度も代替手袋の用意をしなかった。
 その代わり、Chouchene看護師は一般開業医からE45とヒドロコルチゾンのクリームを処方され、病院にいる間はラテックスの手袋の下に木綿の手袋をすることを助言された。この助言は、彼女にとっては業務を行う上でまったく実用的でなかった。彼女の使用者がラテックスアレルギーの簡単な検査や、代替のビニール手袋を彼女のために用意することは一度たりともなかった。
 その結果、彼女の使用者は、1988年有害物質管理規則(COSHH:Control of Substances Hazardous to Health Regulations)と1992年個人用保護具規則(Personal Protective Equipment Regulations)に定められた従業員に対する法的義務の明白な不履行があるとして提訴された。
 Choucheneは看護師としてのキャリアを1976年に開始し、臨床看護師としていろいろな役職で働いてきた。1996年にボルトン王立病院に異動し、2000年3月まで在籍した。1980年代前半にこの病院は、体液や血液に接触することのある職員全員に対してラテックスの手袋の着用を義務づけた。
 Choucheneが過敏症状を感じ始めたのは1992年である。彼女は次のように述べている。「寒い気候と常に手洗いをしているためだと単純に考えていましたが、困ったことに私の手は全然治らず、どんどん悪くなる一方でした。」
 1994年から2000年にかけて、彼女の反応はどんどん強まっていき、悪くなる速度も増していった。「その頃には、自分の仕事をこなすのがとても困難であるように感じ始めていました。ひどい時は血が流れ出ることもありました。2000年になると、私が手袋に耐えられるのは5分がやっとで、それを過ぎると手袋を剥ぎ取らずにはいられませんでした。」
 2000年2月になってChoucheneはようやくラテックスアレルギーの診断を受けた。彼女は直ちに手術室勤務を辞め、非臨床系の職場に異動した。
 全国的なアーウィン・ミッチェル(Irwin Mitchell)法律事務所の弁護士Sarah Brumpton氏は次のように語っている。「1988年のCOSHH規則があるにも関わらず、長年にわたって病院がこの女性の観察をしようとしなかったのは信じられない思いだ。
 彼女は自分の職場の労働衛生部に赴くことで正しいことをしようとした。しかし、彼女に対して適切な検査や代替策の提供は一度も行われず、彼女の状態もまったく観察されなかった。
 こうした病院側の根本的な過失によって、彼女の人生に非常に深刻な影響が及ぼされた。それは今日でも続いており、彼女は、自分がもっとも愛している職種である臨床看護師の仕事にもはや就くことはできない。」