写真と年表で辿る産業安全運動100年の軌跡 発展の時代(昭和30〜40年代)

「もはや戦後ではない」(昭和31年度・経済白書)という言葉が使われた昭和s30年代初めから、日本経済は技術革新を基盤とした、世界にも例をみない高度成長の道をたどった。“神武景気”、“岩戸景気”といった好景気が続き、昭和30年から第一次石油ショックの昭和48年までに国民総生産(GNP)は平均年率10%という驚異的な成長率を示したのである。
技術革新があらゆる分野で進み、新たな原材料、工法、機械設備が相次ぎ導入され、それに伴い労働災害の大型化、新たな職業病の発生という問題が生じた。昭和36年には死者6,712人とピークを記録し、死傷者数も81万人(休業1日以上)を超えた。
このような状況の中、事業主の自主的な災害防止活動の促進を目的として、昭和39年、「労働災害防止団体等に関する法律」(昭和47年「労働災害防止団体法」と改称)が制定された。また、産業社会の進展に即応できる労働災害、職業病防止のための総合立法の必要性が叫ばれるようになり、昭和47年、「労働安全衛生法」が制定された。

 

年表(昭和30〜40年代)

 

昭和31年1956年
  • 労働省労働衛生研究所が設置される。
  • 日本伸銅協会に安全委員会が置かれる。
昭和32年1957年 紡績工場の安全週間行事(昭和32年)私鉄経営者協会に労働安全部会が置かれる。
昭和33年1958年 出来事・1958年 ヘップサンダル製造の内職主婦らのベンゼンゴムのりによる中毒が社会問題となる。日本鉄鋼連盟に安全委員会が置かれる。
解説
ヘップサンダル製造の内職者の中毒
昭和33年、オードリー・ヘップバーン主演の映画がきっかけとなり流行したヘップサンダルを製造していた内職者たちにベンゼン中毒が多発し、翌年には死亡者が発生した。サンダルの裏底を接着するゴムのりに有害性の高いベンゼン(ベンゾール)が含有されていることを知らず、内職者たちはベンゼン蒸気を毎日吸い続けていたのである。労働省はこの事態を重くみて、昭和34年11月にベンゼンを含有するゴムのりの製造、販売、輸入、使用を禁止する省令を公布した。
また、家内労働者は労働基準法が適用されず、内職者たちが治療費を工面する余裕もなく病状を悪化させていることも多く、労働省は昭和36年に「家内労働に関する行政措置」を通達、昭和45年には「家内労働法」を公布、施行した。
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昭和34年1959年 全国労働衛生協会(全衛協)が設立解説される。
解説
全国労働衛生協会(全衛協)が設立
全国労働衛生協会(全衛協)が設立
昭和29年に全国衛生管理協議会(全衛管協)が設立されたものの、衛生管理を企業経営の中に根付かせるには、事業主自らの取組みが不可欠であった。このような背景の中、昭和34年には全衛管協を基盤として、事業主を結集した新しい全国組織結成の動きが本格化した。
全衛管協内に新団体の在り方を検討する協議会が設置され、新しい全国組織の基本原則が決められた。
その後、全国労働衛生協会設立準備会で創立細目が決定され、第6回全国労働衛生大会で提案、採択された。昭和34年12月、全国労働衛生協会(全衛協)の創立総会が東京で開かれ、翌35年1月には社団法人の認可を受け、事業主団体として事業活動を開始した。機関紙「労働衛生」の発行、講習会の開催のほか、特殊健康診断や有害物質の毒性検査など幅広い活動を行った。
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昭和35年1960年 国民安全の日パレード(昭和35年 石巻)
  • じん肺法が公布・施行される。
  • 産業労働福利協会(産業福利協会の後身)が全安連と合併する。
  • 毎年7月1日が「国民安全の日解説」となる。
  • 有機溶剤中毒予防規則が公布・翌年施行される。

解説
国民安全の日
国民安全の日
昭和34年12月に開かれた産業災害防止対策審議会において、日本経営者団体連盟の専務理事前田一が「工場でいくら安全対策を講じても、一歩工場の門を出て車にはねられてしまっては何もならない。それには国民安全の日というようなものをつくって、国民の安全意識の向上を図ってはどうであろうか」と提案した。
このような呼びかけもあって、翌35年に閣議了解され、同年から毎年7月1日を「国民安全の日」とした。その趣旨は、「国民の一人一人が生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め、産業災害、交通事故、火災等国民生活の安全をおびやかす災害の発生の防止を図る」ことにある。
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昭和36年1961年 日本労働衛生工学会が発足する。
昭和37年1962年 出来事・1962年 常磐線三河島駅構内で多重衝突死者160人クレーン等安全規則が公布・施行される。
解説
常磐線三河島駅構内で多重衝突
昭和37年5月、常磐線三河島駅(東京・荒川区)構内で三本の列車がつぎつぎに脱線、衝突し、死者160人、重軽傷者約320人という大惨事が発生した。原因の一つは、機関士の信号見落としというヒューマンエラーであった。
この惨事を契機に国鉄はATS(自動列車停止装置)の設置を決定、鉄道のフェールセーフ化を進め、昭和41年には全線区で整備が完了した。ATSは赤信号に近づくと、まずブザーが鳴り、5秒以内に運転士が確認ボタンを押さないと急ブレーキがかかるというシステムである。このシステムによって信号見落とし事故は減ったが、運転士がATSの電源を切ってしまったことによる衝突事故や、ATSは正常に作動したもののスピードオバーによる衝突事故が発生した。このような事故のたび改良が繰り返され、現在では完成度の高いATSが設置されるようになった。
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昭和38年1963年 出来事・1963年 横浜鶴見の
東海道線二重衝突 死者161人 三池炭鉱爆発 死者458人国鉄労働科学研究所が設立される。
解説
東海道線二重衝突事故と炭坑爆発
昭和38年11月9日午後9時50分頃、横浜市鶴見区の東海道線で起きた列車の二重衝突事故は、死者161人、重軽傷者約120人という大惨事となった。
同じ日、福岡県の炭鉱で大爆発が発生し、死者458人を出した。この死者のうち95.5%の430人が一酸化炭素中毒によるもので、このほかにも800人もの一酸化炭素中毒患者を出し、世界に例をみない災害となった。
当時は高度経済成長期にあったが、これらの事故は生産中心の社会への警鐘となった。この二大災害はマスコミでもとりあげられ、朝日新聞は12回にわたり「文明社会と安全」という一般紙では初めての安全キャンペーンを行った。
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昭和39年1964年
  • 労働災害防止団体等に関する法律が公布・施行され、全安連、全衛協の事業を吸収して中央労働災害防止協会(中災防)が設立される。
  • 陸上貨物運送事業、港湾貨物運送事業、林業、建設業及び鉱業の業種別労働災害防止協会が設立される。
昭和40年1965年 安全衛生旗解説が制定される。出来事・1963年 山野炭鉱でガス爆発 死者237人
解説
安全衛生旗
安全衛生旗
昭和39年11月、中災防では安全衛生を一つに象徴した「安全衛生旗」の図案を公募した。その結果、1,300通の応募があり、昭和41年1月、労働大臣石田博英の裁断で、中央の緑十字を衛生を象徴する白十字がかこみ、その他の地を緑にしたデザイン(東京・若林南海男氏の作品)が選ばれた。安全衛生旗は、全国いたるところの作業場等に掲げられるようになった。
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昭和42年1965年 出来事・1967年 日本郵船ぼすとん丸でアルキル鉛がドラム缶から漏れ清掃員、海上保安官など50名が被災うち8名が死亡
解説
わが国初の安全工学科が設置
昭和36年、横浜国立大学の北川徹三教授は「災害全般に亘る発生原因についての科学的知識および災害防止対策についての工学的知識を、系統的に体系化した安全工学的学問が発達することが必要である」とし、志をともにする研究者たちと安全工学協会を設立した。
さらに、昭和40年に日本学術会議第44回総会で「産業安全衛生に関する諸研究の拡充強化」の勧告が行われ、翌年、総理府の産業災害防止対策審議会から、「今後における産業構造及び労働事情等の変化に対応してとるべき産業災害防止対策について」の答申が出された。この中で、大学における安全工学科設置の重要性が盛り込まれたことも追い風となり、北川教授らの活動により、昭和42年4月に日本で初めて、横浜国立大学に、「安全工学科」が誕生した。
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昭和43年1968年 緑十字展解説が開催される。
解説
緑十字展
緑十字展の開催
昭和29年8月、東京で開かれた労働展(労働省・全日本産業安全連合会共催)に11のメーカーから保護具が出展された。わが国初めての安全衛生保護具の展示会である。その後、保護具メーカーは定期的に会合を開き、昭和31年、安全衛生保護具・装器具の普及のため、情報交換を通じて相互の研鑽を図る組織を作る必要性を感じ、「みどり会」を結成した。昭和44年には加盟会社が28社に増え、「日本労働災害防止推進会」に名称を変更した。
 中災防は、昭和43年9月に安全衛生保護・機器を集め、東京・芝の安全会館の中庭において、初の「緑十字展」を開催した。「緑十字展」は翌44年以降、全国産業安全衛生大会と併せて毎年主要都市で開催されている。いうまでもなく、緑十字展の開催にあたっては、日本労働災害防止推進会の協力が不可欠となっている。
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昭和44年1969年 出来事・1970年 大阪・北区の地下鉄工事現場でガス爆発 死者79人全国産業安全大会と全国労働衛生大会が一本化され、全国産業安全衛生大会として開催される。
昭和46年1971年 出来事・1970年 三菱重工
長崎造船所でタービン・ローター破裂事故 死者4人
  • 特定化学物質等障害予防規則が公布・施行される。
  • 事務所衛生基準規則が公布・施行される。
  • 酸素欠乏症防止規則が公布・施行される。
  • 産業界全体の労働災害防止を財界トップで話し合うための労働安全衛生懇話会が開催解説される。
  • 年末年始無災害運動が始まる。

解説
タービン・ローター破裂事故
昭和45年10月24日、長崎の造船所において、海外向け33万kWタービン用に製造された重さ50トンのローターが加速度試験中に破裂し、ローターがほぼ4等分に割れて飛散するというタービン史上に残る事故が発生した。4人が死亡、61人が重軽傷を負った。
同造船所の「史料館」には事故の経験を引き継ぐ貴重な資料として、破裂の起点と疲労破面を含む破片を展示してある。破壊力学上貴重な資料であり、このような事故を繰り返さないよう、日本のローター製造技術は飛躍的に改善された。
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解説
労働安全衛生懇話会が開催
 労働災害防止を高い次元で話し合う
 労働安全衛生懇話会
労働安全衛生懇話会が開催
労働安全衛生法の制定は、労使双方からの抵抗もあって、「画期的だが前途多難」とされていたが、産業界の協力を得るために大きく貢献したのは労働安全衛生懇話会であった。
この懇話会は、中災防会長・三村起一と同副会長兼理事長・前田一が、日経連代表常務理事・桜田武、経団連会長・植村甲午郎、経済同友会代表幹事・木川田一隆をはじめ、各業界のトップに呼びかけ、昭和46年9に発足したもので、労働省からも労働大臣・原健三郎をはじめ、幹部が出席した。
懇話会は3回開催され、話し合いの結果は「話し合い事項取りまとめ」として政府に渡された。この中で、企業経営者の安全への基本姿勢を示すとともに、技術的・財政的な援助を政府に要望している。
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昭和47年1972年 労働安全衛生法が公布・施行される。
昭和48年1973年 出来事・1973年 石油コンビナート関連化学工場で爆発事故多発 計16件
解説
ゼロ災害全員参加運動
 このマークはゼロ災運動キャンペーンの
 シンボルマークである。
ゼロ災害全員参加運動
昭和46年9に開かれた財界トップらによる労働安全衛生懇話会は、労働安全衛生法制定への審議が中心であったが、その際、「安全衛生管理組織の確立は、企業内の生産組織が一体となって、全員参加の活動を展開すること」、また、「安全衛生教育の徹底は、作業者自身の安全衛生自主活動により促進すること」が議論された。この議論がきっかけとなり、中災防では独自の迫力ある安全運動キャンペーンを企画するためプロジェクトチームを結成、「ゼロ災害全員参加運動」の推進要領を作成し、昭和48年に発表した。その趣旨は「経営者、管理監督者をはじめ、全部門、全職場の従業員の自主的参加によって、労働災害の絶滅と全員健康の理想を実現する」というものであった。
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解説
安全衛生教育センターの設置
6日間泊まり込みで、第一線監督者らに安全衛生教育をするのに必要な知識等を研修するRST講座の受講生たち(東京・清瀬市の中災防東京安全衛生教育センター)
安全衛生教育センターの設置
労働安全衛生法では、安全衛生教育が重視され、新入者教育、特別教育、職長教育などが、事業者に義務づけられた。国は、事業者の行う安全衛生管理が効果的に実施されるよう、安全衛生教育の講師養成を目的に安全衛生教育センターを昭和48年10月、東京・清瀬市に設置した。また、53年11月には、大阪・河内長野市にも教育センターが設置された。その代表的な講座である職長教育の講師養成講座「RST講座」修了者は、平成20年上半期には両教育センター合わせて10万名に達している。両教育センターの運営は、中災防が国から委託されている。
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昭和49年1974年 労働安全、労働衛生コンサルタントの登録が始まる。

 


エピソード
森繁の安全メモ
マスコミが取り上げた安全衛生の番組に「森繁の安全メモ」がある。昭和35年7月1日から1年3カ月にわたり日曜を除く毎日1回、ラジオ東京(現在のTBS)をキー局にして、全国の8局から放送された。森繁久彌自身、安全問題に強い関心をもち、放送開始と同時に10日間分は自分でシナリオを書いたほどの熱の入れようで、スポンサーは安全に熱意をもつ玉置明善氏が社長をつとめる千代田化工建設株式会社であった。
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エピソード
世界を変えたローベンス報告
事故が起こるたびに再発防止のための法令を次々と制定してきたイギリスでは、安全衛生法令が増えすぎ、監督官でさえ全体を理解できないほどになっていた。問題解決のため調査を行ったアルフレッド・ローベンスは、1972年「労働災害を防止するには国が制定する法令だけでは限界があり、事業場による自主的な対応が不可欠である」という内容の報告書を作成した。
このローベンス報告を踏まえ、イギリス政府は1974年に新たな労働安全衛生法を公布した。この法律は、基本的な事項のみを定め、事業場による自主対応を求めた画期的なものであった。これを機会にイギリスの安全衛生活動は、法令遵守型から各事業場の責任に基づいた自主対応型に大きく変換し、2009年の死亡災害は、1974年と比較すると81%まで減少している。
自主対応型という発想は周辺各国からも高く評価され、その後、EC規格、ILO条約、ISO規格、労働安全衛生マネジメントシステム(OSHMS)の基本原則として広く取り入れられたのである。
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エピソード
バードの分析による事故比率
1969年、北米の保険会社にいたフランクE.バードJr.は、297社から報告のあった1,753,498件の事故の分析を行った。その結果、重症(死亡、廃疾を含む)1件につき、軽症(応急手当で済んだ障害)が9.8件、財産障害事故が30.2件、ヒヤリハットが600件発生していることがわかった。
 バードは、この1:10:30:600の比率から、重症事故が起こるのはまれであり、より頻繁に発生する小さな出来事に処置を講じれば、災害防止に有効であることを導いたのである。

 * 報告のあった事例を解析したものであり、実際に起こった事故の総数ではない。
 * この比率が、どのような業種や企業にも摘要されるとは必ずしも言えない。

(注)ハインリッヒ「1:29:300の原則」
 ハインリッヒは、災害防止に関するアメリカの先覚者で、「1:29:300の原則」等の提唱者。「1:29:300」の比率について、ハインリッヒは、「鉄骨の組み立てと事務員では自ずから異なる」といっており、また、この比率も労働態様の変化等が著しい現代では異なってきているが、災害の背景に不安全な状態や不安全な行動が無数にあるという考え方は今でも活きている。
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