写真と年表で辿る産業安全運動100年の軌跡 運動の夜明け(大正時代)

欧米先進国より1世紀以上も遅れて、近代化の道を歩み始めた日本は、「富国強兵・殖産興業」をスローガンに明治政府の強力な指導のもとに資本主義化を進め、きわめて短期間に近代産業国家に生まれ変わった。その明治の近代産業を担ったのは、繊維産業、鉱業、鉄鋼業などである。
しかしながら現場に目を向けると、鉱山では大規模なガス炭じん爆発が相次ぎ、繊維産業では、農村出身の女工が、粗末極まる寄宿舎生活と深夜業を常態とする長時間労働という苛酷な労働条件のもとでの生活を強いられた。結核の罹患も増え、郷里に帰された罹患者から農村に広まり、やがて「国民病」となり、国家的な問題に発展する。一方、明治15年頃から国も労働者保護の動きをみせ、明治44年工場法が公布された。
明治後期に始まった労働者保護の動きは、大正時代に入り大正デモクラシーと軌を一にして安全衛生にかかわる民間の運動として芽生えてくる。安全衛生運動の先覚者は、自由を求める時代の中で生まれた。

 

年表(大正時代)

 

明治〜大正期 鉱山で大規模な爆発事故が相次ぐ。繊維業では苛酷な労働条件のもとで、女工の結核罹患者が増加する。
大正元年1912年 出来事・1912年 夕張炭鉱でガス爆発4月死者276人12月死者216人「安全専一」の標示板小田川全之解説(古河鉱業足尾鉱業所所長)が、アメリカ産業界で提唱されていた「セーフティ・ファースト」を「 安全専一解説」と訳して標示板をつくり、所内の安全活動を推進する。
解説
小田川全之
小田川全之(おだがわ まさゆき)
小田川全之は工部大学校土木工学科卒業後、土木工事や民間鉄道工事等に従事した後、古河家に入り、足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組んだ。
アメリカの銅採鉱・製錬技術を学びに渡米した小田川全之は、ひとつの「おみやげ」を持ち帰った。「安全専一」である。
大正元年、古河鉱業足尾鉱業所の所長となった小田川は、アメリカで提唱されていた「セーフティ・ファースト」を「安全専一」と訳した標示板を作り、これを坑内外に掲げ、わが国の事業場で初めて安全運動を始めたのである。
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解説
安全専一
安全専一の標示板
足尾鉱業所の坑内外に掲示されていた「安全専一」の標示板(写真提供:足尾銅山観光)は、ほうろう(金属表面にガラス質の釉薬を焼き付けたもの)で作られていた。当時のほうろうはヒビ割れし、サビやすく、劣化しやすいものであり、現在残存している標示板はわずかに数枚だけである。
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大正3年1914年 出来事・大正3年 福岡県方城炭鉱でガス爆発 死者687人 日本最大の炭鉱事故 蒲生俊文解説(東京電気工業部庶務課長)が、社内で安全活動を開始する。
解説
蒲生俊文
蒲生俊文(がもう としぶみ)
蒲生俊文は東京帝国大学卒業後、東京電気(現、東芝)に就職。庶務課長をしていた大正3年のある日、悲惨な感電事故の現場を目撃したことをきっかけに、生涯を安全運動に捧げた。大正6年に内田嘉吉らとともに安全第一協会を設立し、大正13年東京電気を辞して以降は、わが国の安全運動の中心的存在となって活躍した。
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大正5年1916年
  • 工場法解説が施行される(公布は明治44年)。
  • 内田嘉吉解説(後の逓信次官・台湾総督)がアメリカから帰国し、安全第一運動を提唱する。

解説
工場法
東洋紡績株式会社 提供
工場法の施工
農商務省の実態調査を元に作成された工場法は、工場労働者を保護する目的で明治44年3月に公布され、当初は2年後の施行を予定していた。しかし、実際の施行は公布から5年5カ月後であった。施行が遅れた理由として、経済不況や政変が続いたこともあるが、工場主側の根強い反対があったことも大きい。
紆余曲折のすえ大正5年に施行されたが、例外規定もあり、労働者保護には十分とは言えない内容であった。
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解説
内田嘉吉(うちだ かきち)
大正5年、北米旅行を続けていた前逓信省管理局長の内田嘉吉は、ゆく先々で「SAFETY FIRST」という文字を目にし、大きな感銘を受けた。「セーフティ・ファースト」こそ時代の要求する精神である、そう心に誓ったという。帰国後、さっそく「安全第一」を広めるため、蒲生俊文らとともに、大正6年に安全第一協会を設立した。
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大正6年1917年 出来事・1917年 福岡県桐野炭鉱でガス爆発 死者269人
  • 愛知県工場会の創立以降、工場懇話会など事業主団体が各地で創設される。
  • 三村起一解説(住友伸銅所)が蒲生俊文に啓発され、本格的に安全運動を進める。
  • 内田・蒲生の主唱により、災害防止を目的とする初の団体として、安全第一協会が設立される。機関誌「安全第一」を刊行する。

解説
三村起一
三村起一(みむら きいち)
三村起一は東京帝国大学卒業後、住友家に入り住友系各社の役員を歴任、就任先で熱心に安全運動を推進した。社外でも産業安全協会を設立するなど、戦前戦後を通じて、わが国の安全衛生水準向上の大きく貢献した。三村が安全運動に一生を捧げるきっかけとなったのは、入社して間もない頃、切断機に巻き込まれた災害を目の当たりにしたことにある。中央労働災害防止協会初代会長でもある。
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大正8年1919年 出来事・1920年 日本最初のメーデー開催
  • 倉敷紡績社長大原孫三郎が私財を投じて大原社会問題研究所を設立する。
  • 6月15日から1週間、東京でわが国はじめての安全週間解説が実施される。この時蒲生の提案で緑十字マーク解説の採用が決まる。

解説
わが国はじめての安全週間
わが国初の「安全週間」を報ずる「東京日日新聞」(大正8年6月15付)顔写真は「安全第一運動」の推進者、内田嘉吉。
わが国はじめての安全週間
昭和4年に開催された際の「第2回全国安全週間報告」の表紙
わが国はじめての安全週間
大正8年5月、労働災害防止に関する社会的関心の高まりを背景に東京・お茶の水にあった東京教育博物館(現在の上野科学博物館)が「災害防止展覧会」を開催した。5月4日、講師に招かれた蒲生俊文は、アメリカのセントルイス市で盛大な安全週間が実施されたことを詳しく報告し、大きな反響を呼んだ。
蒲生は、安全思想の普及を図るため、わが国でも安全週間の実施を呼びかけた。これに賛同したのは上野警察署長の池田清、展覧会を主催した博物館長の棚橋源太郎である。安全週間の実施計画を進めていく中で、多くの賛同者も得て、わが国初の安全週間は大正8年6月15日から同月21日までの1週間、東京市及び周辺で実施された。

 

初の安全期間中、車体に緑十字マークをつけて走る東京の市電(大正8年6月)
「第2回全国安全週間報告」に掲載された紡績工場の正面写真
「第2回全国安全週間報告」に掲載された
海軍燃料廠正面の写真
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解説
緑十字マーク
緑十字マーク
安全週間実施に際し設置された発起人会でシンボルマークを新たに定めることになった。二つの案が出され、一つは青地に白線二本を引くもので、一つは緑十字であった。前者は東京教育博物館長棚橋源太郎の、後者は蒲生俊文の案であった。蒲生の根拠は、「十字は外国では仁愛を意味し、東洋では福徳の集まるところを意味する。緑とするのは、当時米国のNSC(全米安全会議)が青地に白十字を使っており、また日本では赤十字と結核予防会のマークとして赤の複十字があるから。」というものであった。蒲生の案に参加者一同が賛成し、緑十字マークの採用が決定した。
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大正10年1921年 出来事・1920年 丹那トンネルで崩壊事故 死者16人大原社会問題研究所の暉峻義等解説らが倉敷労働科学研究所を設立解説し、労働生理、医学、心理の研究をはじめる。
解説
暉峻義等
暉峻義等(てるおか ぎとう)
倉敷労働科学研究所の初代所長。労働科学研究の先駆者。工業だけでなく、農業労働も含めて健康問題、疲労問題の調査・研究を行った。昭和4年に産業衛生協議会(現日本産業衛生学会)を創立、また化学繊維工業で起きる職業病問題を調査・研究するため昭和13年、人絹連合会、スフ工業会両団体傘下の各社を会員とする化学繊維工業保健衛生調査会の誕生に尽力した。
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解説
倉敷労働科学研究所
倉敷労働科学研究所の設立
大正9年2月の寒い夜、倉敷紡績社長・大原孫三郎はこの前年に設立された大原社会問題研究所の社会衛生担当の研究員となっていた医師・暉峻義等(てるおか ぎとう)をつれて、岡山県倉敷市にある同社の万寿工場を見学して歩いた。夜業中で、若い女工が夕方6時から翌朝の6時までの12時間作業に従事していた。激しい騒音と立ち込める粉じんの中、汗とほこりにまみれて働く女工達は疲労しきっていた。想像以上の不健康な環境に大原は胸を痛めた。
工場での衛生問題を科学的に究明することの必要性にかねてから着目していた大原は、その意図を暉峻に語り、その任務の遂行を託していた。大原の要請を受けた暉峻は、万寿工場内の寄宿舎に隣接する土地に研究室を建てることを申し出、翌大正10年、木造平家建ての研究所が竣工した。これが、労働衛生に関するわが国初の民間研究施設としての倉敷労働科学研究所の誕生であった。
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大正14年1925年 出来事・1922年 関東大震災 死者9万人、全壊焼失46万戸産業福利協会設立解説、民間における安全運動の推進に当たる。翌年より、月刊「産業福利」解説を刊行する。
解説
産業福利協会設立
産業福利協会の設立
大正5年の工場法の施行をうけ労働問題の関心が事業主に広まり、各地に工場懇話会、工場衛生会といった工場主団体が設立され、大正14年には全国各地にほぼ設立をみるようになった。
しかし、地方ごとのバラバラな組織では、大きな力とはなり得ないとのことで、内務省社会局の労働部長河原田稼吉(かわらだかきち)を中心に、全国的組織がつくられることになった。こうして、大正14年末に「産業福利協会」が誕生した。産業福利協会では各団体との連携のほか、安全週間の実施、講習会の開催、月刊誌「産業福利」の発行等、多彩な活動を行った。
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解説
月刊「産業福利」
月刊「産業福利」
月刊「産業福利」第1号、現在確認されている唯一の貴重な資料である。(大正15年発行・中災防所蔵)
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エピソード 

エピソード
重松と「ブタマスク」
酸に侵され灰色に変色しボロボロになった歯を自慢する作業者や、酔っ払いのようにフラフラしている職業病患者を見た重松は心を痛め、大正6年に会社をやめて独立して職業病予防のため防じんマスクの研究開発をはじめた。
国内第1号の防じんマスクは、ブタの鼻に似ていたことから「ブタマスク」とアダ名された。さらに作業者からは、「こんなもの着けていたら仕事にならない」、「ガスの臭いが気になるようじゃ素人だ」とあしらわれ、ほとんど売れなかった。それどころか、「いまのままでは病気になりますよ」と言って歩いたため、労働者をあおる左翼運動家と間違えられ、刑事に張り込まれる始末であった。マスクの価値が鉱山や化学工場で認められるようになったのは、昭和に入ってからである。
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