写真と年表で辿る産業安全運動100年の軌跡 復興の時代 (昭和20年代)

敗戦によるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民主化政策の矢継ぎ早の実施は、日本の政治、経済、社会体制に未だかつてない変革をもたらした。この“民主化の嵐”の中で、昭和22年、工場法に代わる画期的な法律として、労働基準法が制定された。
戦後の激しいインフレも昭和24年のドッジラインにより収束をみたものの、その代償として極端な金詰りから「安定恐慌」に襲われた。しかし、昭和25年の朝鮮戦争を契機にわが国経済はようやく復興のきざしをみせるようになった。
経済の復興に歩調を合わせ、戦時中中断していた全国安全大会が復活した。鉄鋼、造船、セメント、自動車、硫安・ソーダ工業、私鉄、建設、金属、鉱山、炭鉱などの事業主団体は、安全・衛生専門の部会、委員会を設け、業界をあげて安全運動に取り組むようになった。安全団体も次々設立され、昭和28年には、全国的な組織として、全日本産業安全連合会(全安連)が創立された。
労働衛生の分野でも、衛生管理者制度の誕生、全国労働衛生週間・全国労働衛生大会の実施、全国労働衛生協会(全衛協)の前身である全国労働衛生管理協議会の設立など、活発な動きがみられた。

 

年表(昭和20年代)

 

昭和21年1946年 出来事・1945年 ポツダム宣言受諾、敗戦厚生省主唱のもと戦後初めての全国安全週間解説が実施される。
解説
戦後初めての全国安全週間
昭和3年に始まり、戦時中も中止することのなかった全国安全週間であったが、戦後の昭和21年の実施には制約も多かった。まず、当時はアメリカの占領下であったため、全国的な運動を展開するにはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の承認が必要であった。ところが、GHQは安全運動には資料貸し出しなど協力を惜しまなかった。ただし、戦時中の産業報国運動への批判と、全国安全週間から統制色を拭い去りたいということで、スローガンは掲げないこととした。
この年の全国安全週間は厚生省の主唱で、10月1日から行われた。これは、極度の食糧難を考慮し、10月になれば新米がとれ、明るさが取り戻せるであろうという配慮からであった。
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昭和22年1947年 出来事・1947年 八高線転覆 死者440人
  • 労働基準法が公布・施行される。
  • 初めての地方の安全協会として、神奈川県安全協会が設立される。
昭和24年1949年
  • 戦前設立された汽缶協会が日本ボイラ協会と改称される。
  • 日本鉱業協会に保安部会が置かれる。
昭和25年1950年 出来事・1950年 国鉄信濃川発電所トンネル工事落盤事故 死者43人

 


解説
鉄鋼6社安全連絡会の発足
鉄鋼工場を点検する鉄鋼6社安全会議の一行
昭和28年3月。布製の作業帽、背広服姿は今では構内で見られないスタイル。
鉄鋼6社安全連絡会の発足
戦後も昭和25年になると、朝鮮戦争を契機として産業が復興し、安全運動も復活するようになった。
鉄鋼大手6社(日本鋼管、富士製鉄、八幡製鉄、住友金属工業、川崎製鉄、神戸製鋼所)では、昭和25年から6社安全連絡会(昭和26年に6社安全会議と名称変更)が開催されるようになった。この会合ではお互いの工場を見学しあって、安全上の問題点を指摘し合い、指摘された点は素直に受け入れることが徹底的に守られていた。この会合が鉄鋼経営者層の安全意識の向上に与えた影響は多大で、昭和25年の6社平均度数率65.35は、5年後には7.15まで激減したのである。
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解説
全国労働衛生週間が、全国安全週間から独立
第1回の労働衛生週間ポスター
(昭和25年)
全国労働衛生週間が全国安全週間から独立して実施
戦後になると、労働衛生の分野では伝染病や職業病の予防だけでなく、環境改善・健康増進などの新しい課題が浮かび上がってきた。こうした課題へ対応するためには専門的な知識を持った人材が必要なことから昭和22年に衛生管理者制度が設けられた。
このような状況の中、労働衛生を見直し、独自の取組みを進める必要があるとして、昭和25年より全国安全週間から分離し独立した全国労働衛生週間(労働省主唱)が開催されるようになった。
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昭和26年1951年 出来事・1951年 国鉄桜木町駅で電車火災 死者106人
  • 日経連教育委員会に安全部会が置かれる。
  • 全国建設業協会労働災害防止対策委員会が置かれる。
  • 自動車工業安全会議が発足する。
  • 日本造船工業会に安全部会が置かれる。
  • 日本鉄鋼連盟に労働衛生専門委員会が置かれる。

昭和28年1953年 出来事・1952年 日航機木星号大島三原山墜落 37人全員死亡
解説
戦後初の全日本産業安全大会が東京で開催
戦後第1回の全日本産業安全大会
昭和26年10月26日、東京・日本大学講堂
戦後初の全日本産業安全大会が東京で開催
昭和7年から15年まで続いた全国産業安全大会は、戦争により中断されていた。戦後の経済復興と安全運動に対する関心が深まるにつれ再開の気運が高まり、中断から11年目の昭和26年10月になって全日本産業安全大会という名称で復活した。産業の復興もようやく軌道にのったこの年は、全国各地から1,200人もの多数の参加者があった。
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解説
労働衛生マーク
労働衛生マーク
労働基準法が施行されてから労働衛生の活動も活発化したが、「労働衛生を象徴するマークが欲しい」という要望が関係者や現場の衛生管理者たちの声として寄せられた。労働省労働基準局では昭和28年10月、第4回全国労働衛生週間に際し、労働衛生マークを公募、応募数は1,200通にも達した。福岡県大牟田市の山口正夫氏作の「緑地に白十字」の図案が当選し、これを労働衛生マークとして、以後の全国労働衛生週間や全国大会で積極的に使用した。
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昭和29年1954年 出来事・1954年 青函連絡船洞爺丸座礁転覆 死者1155人
  • 安全衛生保護具の展示会が初めて開催される。
  • 第1回全国労働衛生大会が東京で開催解説される。
  • 全国労働衛生管理協議会が設立される。
  • 日本ソーダ工業に会安全衛生委員会が置かれる。

解説
第1回全国労働衛生大会が東京で開催
第1回全国労働衛生大会で衛生管理者の全国組織設立を提案する戸田弘一神奈川代表(昭和29年10月 東京)
第1回全国労働衛生大会が東京で開催
衛生管理者制度が始まると、衛生管理者同士で情報を交換したいという要望が各地で起こった。昭和23年には東京と福岡に、昭和24年には神奈川、大阪、兵庫、広島に労働衛生管理者協会等が次々と発足した。
衛生管理者組織が、府県レベルで整備されると、地域ブロック別の協議会が結成され、その後、西日本衛生管理協議会、関東甲信静越衛生管理協議会が結成された。
昭和28年、西日本と関東甲信越の両協議会の代表が集まり、全国的な組織のあり方が議論された。翌昭和29年、労働衛生週間5年目を記念し、第1回全国労働衛生大会が開催され、同時に全国労働衛生管理協議会(全衛管協)が設立された。
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