写真と年表で辿る産業安全運動100年の軌跡 進展と停滞の時代(昭和戦前)

第一次世界大戦後のわが国の景気は、昭和4年のアメリカを発端とする“大恐慌”の世界的な波及によって深刻な打撃を受けた。企業は厳しい合理化を迫られ、人員整理、倒産が相次いだ。
低迷の続いた景気も、昭和6年に勃発した満州事変をきっかけに軍需の増大によってようやく回復に向かった。特に金属、機械などの重化学工業は高い伸びを示した。
この時期は、大正時代に芽生えた安全運動が民間・行政の各分野で一斉に広がりを見せた時期でもあった。安全週間も全国行事となったほか、昭和7年には初の全国産業安全大会が開かれた。
昭和に入って安全活動が盛んになるにつれ、事業場で熱心に安全に取り組むところが、大企業を中心に増えていった。住友伸銅鋼管、住友製鋼所、日本鋼管川崎工場、川崎造船所、八幡製鉄所、国鉄大宮工場、三井三池鉱業所等の企業が作業標準づくり、家庭への呼びかけ、安全委員会の開催、安全競争の実施といったユニークな安全活動を展開していった。
しかしながら、昭和12年に始まる日中戦争以後、次第に戦時色が濃厚となり産業安全運動は長い停滞の時期を迎える。

 

年表(昭和戦前)

 

昭和3年1928年 出来事・1927年 磐城炭鉱で火災 死者134人
  • 7月2日から全国的に統一した全国安全週間が実施解説される。
  • 各地の工場に安全委員会が設置され、安全教育、災害原因の探求、適性検査などが始まる。

解説
全国安全週間
第1回全国安全週間ポスター
(昭和3年)
全国安全週間の実施
全国的に統一された第1回全国安全週間は、昭和3年7月2日から7日まで実施されたが、世界でも例のないものであった。「一致協力して怪我や病気を追拂(払)ひませう」という中央標語のもとに、一斉に繰り広げられた。第4回(昭和6年)からは、実施期間が7月1日からの1週間と決まった。その後、わが国独特の行事として、第二次世界大戦中もまた戦後の混乱期にも中断されることなく、その時代、時代の世相を反映しながら現在まで続いている。
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昭和5年1930年 出来事・1931年 満州事変勃発産業安全衛生展覧会が初めて開催解説される。
解説
産業安全衛生展覧会が初めて開催
第3回産業安全衛生展覧会(昭和7年11月 福岡市・県公会堂)
1,175平方メートルの会場には全国から寄せられた2千数百点の安全衛生装器具などが陳列された。来場者は総数1万5,100人。
産業安全衛生展覧会が初めて開催
安全衛生設備の発展と普及を図るとともに、安全衛生の思想の周知を促すため計画されたのが「産業安全衛生展覧会」(主催「産業福利協会」及び「日本鉱山協会連合会」)である。第1回は、第3回全国安全週間と呼応して昭和5年10月25日から11月8日まで東京・丸の内の府立商工奨励館で開かれた。各種安全装置をはじめ、各社・団体の安全衛生活動状況、各種の表示や識別、産業福利協会が欧米から取り寄せた装置・機器・模型など数百点が展示された。15日間に約1万4千人が入場した。
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昭和7年1932年 出来事・1933年 丹那トンネル貫通 着工以来死者63人出来事・1932年 白木屋デパート火災 死者14人産業福利協会の主催により東京・学士会館で初めての全国産業安全大会が開催解説される。
解説
全国産業安全大会が開催
盛況な第1回産業安全大会(昭和7年11月 東京・学士会館)
全国産業安全大会が開催
安全運動が盛り上がっていく中で、安全に携わる者が集まり経験と研究結果を情報交換することにより相互研鑽を図る機会が求められるようになった。
第1回の全国産業安全大会が昭和7年11月21日(月)から3日間、東京・神田の学士会館で開かれ、会場は300人を超える人たちであふれた。
昭和42年の東京において開催された大会は、労働基準法施行20周年記念の大会として安全と衛生両大会の合同開催となり、参加者も初めて1万人を超えた。以降、「全国産業安全衛生大会」として、全国の安全衛生関係者にとっての安全衛生の一大イベントとして定着していった。
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昭和10年1935年 出来事・1935年 瀬戸内海小豆島沖で衝突事故 死者86人セメント製造業者が集まり、同業種の労働災害防止について研究協議会を開く解説。同業者団体の安全運動の先駆けとなる。
解説
セメント製造業者の労働災害防止のための研究協議会の開催
昭和初期の安全活動は、一つの事業場が単独で、あるいは地域的にまとまってすすめられていた。その中で同じ業種の事業場が手を組み安全活動を進めていたセメント業界は特異な存在であった。
セメント業界は従来から、主としてセメントの規格を中心とする技術の研究とその情報を交換してきていたが、災害防止活動でも協力し合うことになったのである。昭和10年、東京で労働災害防止のための研究協議会(セメント製造業負傷対策協議会)が開催された。35工場の代表約200人がつめかけ、講師として招かれた内務省社会局の技師らをまじえて、会場は活気のあるものとなり、同業者団体の安全運動の先がけとなる業績を残した。
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昭和13年1938年 出来事・1938年 夕張炭鉱でガス爆発 死者161人出来事・1937年 日中戦争起こる(盧溝橋事件)人絹連合会及びスフ工業会両団体傘下の各社を会員とする化学繊維工業保健衛生調査会が発足解説し、業種別衛生活動のモデルとなる。
解説
化学繊維工業保健衛生調査会が発足
昭和初期に発展した新興産業として人絹、スフ工業があるが、既に当時から視力低下、指の腐蝕症、精神神経症など作業に起因すると思われる健康障害が指摘されていた。しかし、人絹各社は技術上の秘密漏洩を嫌い、社内での解決策を検討するだけであった。倉敷労働科学研究所の暉峻義等は、そのような人絹各社の姿勢を批判し、早くから共同研究を呼びかけた。
昭和13年、人絹連合会とスフ工業会の両団体傘下の各社を会員とした化学繊維工業保健衛生調査会が発足し、組織的な研究が開始された。具体的な成果として、紡糸機カバーや換気の改善、有害ガスの測定法、二硫化炭素中毒の治療と予防があげられる。この労働衛生問題に対する業界一丸となっての共同解決の姿勢は、のちに活発化する業種別の衛生活動のモデルとなったのである。
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昭和14年1939年 昭和14年から16年にかけて日本鋼管、三井、八幡、芝浦、鐘紡等の事業場に産業医学研究所が設置される。
昭和17年1942年 出来事・1941年 対米英宣戦布告 美唄炭鉱ガス爆発 死者177人伊藤一郎解説らの寄付により、芝・田町に厚生省産業安全研究所が設置、翌18年に付設の博物館が設置される(初代所長は武田晴爾解説)。
解説
伊藤一郎
伊藤一郎(いとう いちろう)
伊藤一郎は東京高等工業学校(現東京工業大学)卒業と同時に同校の助教授となり、大正5年、伊藤染工場の副工場主となった。
安全博物館の設置を唱えてきた伊藤は昭和14年、厚生省労働局を訪問し、安全博物館設置の要望を伝え、その資金として50万円の寄付を申し出た(当時の大卒初任給は約60円)。その後、官民合同の建設委員会を設け、資金の調達を行い、安全研究所を主体として博物館を付設するということで、東京市芝区田町に建設が決まった。
昭和25年、全日本産業安全連合会の創立と同時に同会の専務理事、のち副会長を歴任した。
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解説
武田晴爾
武田晴爾(たけだ はるじ)
武田晴爾は大正8年、東京帝国大学工学部機械科卒業後、一時神戸市の川崎造船所に勤務。昭和3年、神奈川県工場監督官。昭和17年に完成した産業安全研究所の初代所長となった。
同研究所で武田は、機械や装置の構造規格、安全装置、作業用保護具、作業方法の改善について研究を実施するつもりでいたが、戦時色が濃厚になり、実験材料は簡単には入手できなくなっていた。戦後、初代の労働省安全課長となる。
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