昭和48年のオイル・ショックを境に、長く続いた高度経済成長も幕を閉じた。この後も産業構造の変化は続き、製造業では、鉄鋼、造船などの重厚長大型からマイクロエレクトロニクス(ME)など、軽薄短小型産業の比重が高まった。労働力構成も変わり、昭和50年代半ばには、サービス業などの第三次産業が60%近くに達した。一方、労働災害に占める高齢者の比率が、昭和56年には50歳以上で30%を超えるなど年々高くなってきた。また、この時代、ME・OA化を中心に技術革新の波が押し寄せ、産業用ロボットによる災害が発生し、VDT(Visual Display Terminals)作業者の健康問題もクローズアップされた。
社会における人命尊重理念の浸透は、国民一般の権利意識を高める結果となり、企業に対する損害賠償の請求件数の増加と高額化となって表れるようになった。昭和50年、最高裁で「安全配慮義務」が認められ、企業は労働災害の防止に万全の措置をとるよう厳しく求められるようになった。
企業の自主的な安全衛生活動も進み、安全に配慮した設備投資、安全衛生教育の充実、ゼロ災運動をはじめとする活動が活発に行われるようになった。これに伴い、労働災害は、昭和47年に労働安全衛生法が制定されてからの10年間で、休業4日以上の死傷者数は4分の1減少し、死亡者数は半減した。
昭和50年代は、健康管理の分野において、従来の職業病の予防などを主とした健康管理に加えて、積極的な健康づくりが求められるようになった。この考え方は、「シルバー・ヘルス・プラン(SHP)」という新たな健康づくり運動を生み、昭和63年にはSHPをさらに進めてメンタルヘルスを含めた「心とからだの健康づくり運動=トータル・ヘルスプローモーション・プラン(THP)」へ発展することとなった。